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 その人と初めて会ったのは昭和の終わり、倉科が県内の公立高校へ進学したときだった。  中学の頃は何となく水泳部に所属していたが、特に打ち込んでいたわけでもなく、高校で続ける気もなかった。じゃあ他に何かやりたいことがあるかというとそれも別になかったので、結果的に友人に誘われるまま演劇部に入部した。  演劇をやるなんて、思ってもみなかった。  何の憧れも、思い入れもない。  その高校の演劇部は、現部員が2,3年生合計で25名、うち男子は3名のみ。規模は大きくないが過去には大会で受賞歴もあり、それなりに由緒がある。清水という顧問の女性教諭も、アマチュアの演出家としては多少名が知れているらしかった。  鼻息を荒くしてそれらを説明してくれたのは、倉科を演劇部に誘い入れた友人の佐竹亜依(さたけあい)である。彼女とは小学校3年からの付き合いだ。しかし彼女にどれほど熱く語られても、倉科は「へえ」としか返事のしようがなかった。  当然だが、佐竹は、「その人」ではない。  全11名の3年生部員の中に、その人―― 松宮沙都(まつみやさと)はいた。  最初にその姿を見たのは、仮入部期間の始まる4月7日、体育館で行われた部活動オリエンテーションでのことだ。倉科らはもうすでに入部届を書いていたから、ひとつのイベントとして眺めるだけだった。  演劇部の番が来ると、和装の男女数名が檀上に現れて、活動内容の紹介をした。そこに松宮もいて、彼女は濃い赤色の十二単を着ていた。  松宮に注目していたのは、佐竹が「あの人がここのトップ女優なんだよ」と、少し大げさに隣で囁いたからだ。  小作りな顔で綺麗な人だとは思ったが、袖から覗く手首は異様に細く、小柄な人だったので、舞台上という意味では控えめで目立たない印象を持った。  だが不意に照明が落ち、部員らしき生徒らによって体育館中のすべての遮光カーテンが一斉に閉められると、スポットライトが彼女を捉え、一人正面に躍り出た。  そして彼女が物語の一節と思われるセリフを発すると、印象は覆った。 『思い出すわ、初めて出仕したときのこと。美しい宮様。まわりには華やかな女房たちが、わが世の春を楽しんでいる』  仰ぐように、(かざ)すように、右手を正面上方に差し出して、彼女は切なげな表情を浮かべた。  遠く離れた場所からでも分かる潤んだ瞳が、どこということもない、上方の彼方を眺めやる。  張り上げているわけでもないのに彼女の声が耳元まで清澄に届くのは、あっという間に館内が静まり返ったからだろう。  ついさっきまで、野球部やラグビー部が熱い言葉で新入生たちをリクルートしていた場所とは思えない。倉科は、一瞬で彼女に目を奪われた。  やがて松宮はふっと表情を緩め、客席に向かって一礼すると、笑顔を見せた。 「これは、私たち演劇部の伝統となっている『廬山夜雨(ろざんやう)』というお話に出てくるワンシーンで、清少納言のセリフです。このお話は枕草子をモチーフにしているので、皆さんにとっても、少し馴染みがあるかもしれません」  彼女が解説した内容を、倉科は頭の中にしっかりと書き留めた。  それから館内が明るくなり、別の部員にバトンタッチして、部の説明に入った。普段の活動内容や年間スケジュール、それに過去の演目などの説明だった。  やがて説明の最後になると、再び松宮が前に出た。  自然と心が躍ったことで、倉科は「もう一度声を聴きたい」と期待していた自分に気が付いた。 「私たちは、皆さんと一緒にお芝居ができることを楽しみにしています」  このときにはもう、佐竹と同じ程度の熱量を持っていたかもしれない。隣を見ると、彼女も上気した顔で舞台に見入っていた。
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