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ふと考える。
たとえば普通の病院の受付では、担当のスタッフが、落ち着いた振る舞いと穏やかな表情、それに丁寧な言葉遣いで患者に応対するだろう。
カウンターの奥にいる診療費計算の担当者たちだって、静かにただ淡々とキーボードを叩いている。
それが普通で、当たり前だ。賞賛すべきことでもない。
だが内側にいる者、とりわけ管理職となると、その秩序が一定の努力と苦労の元に成立していることを知っている。
その日も、倉科頼子はそれを再認識させられた。
医事課の奥から甲高い女たちの声とざわめきが聴こえてきたとき、イヤな予感がしたのだ。株式会社AIMはこの病院で医事業務を請け負っていて、倉科は外来リーダーの立場にいる。
「えーっ、コレ絶対そうじゃん!」
「間違いないね! でもなんで安座富町なんかに来たんだろ。地元?」
声の主はすぐに分かった。スキャン係の湯島と、外来受付の金澤だ。どちらも生粋のお喋り好きで、倉科は辟易した。
外来会計も一段落した夕方のことだった。
レセプトのチェックに集中していた倉科は、騒ぎを聞いて仕方なく腰を上げた。統括リーダーが会議で支社へ出向いているため、代わりに倉科が、特にやんちゃなスタッフたちに目を光らせている。
「どしたの、大声出して。患者さんに聴こえるでしょ」
「倉科さん、見てコレ。ついこないだまで、ドラマ出てたじゃん。今うちの病棟にいるってこと?」
金澤が、電子カルテの画面を指差してまくし立てる。見ると映画やテレビドラマで活躍している若手俳優の名があって、「東二階病棟入院中」となっていた。
「あー、そうね、そうそう」
「何さ、知ってたの? 言ってくださいよ、そういうの。びっくりしたよ」
湯島が口を尖らせた。金澤も同じような表情で「先に知ってれば、いろいろ対策もあったのになぁ」と言った。対策って何なんだ。
「私、病室覗いて来ようかな、ファンの友達がいるんだ、自慢できるし」
「バカ言ってんじゃないの、絶対ダメだからね」
「カタいなぁ、倉科さん」
「カタいとか、そういう問題じゃないでしょっ!」
倉科は声を荒げた。大声を出すと相手は必ず怯んだような仕種をするのだが、それがポーズだということも分かっている。
それにしても、まだ二十代の金澤はともかく、湯島は倉科と大して年も変わらないのに、何とも落ち着きがない。
数ヶ月前、他の病院でスポーツ選手の入院情報を当たり前のようにSNSに載せて、処分された不届き者がいた。そのときもスタッフたちに厳重注意したのだが、まるで理解されていない。
「今は個人情報だのなんだのって、ホントうるさいよね」
「医事課のスタッフが言うことじゃないでしょ、まったくもう」
「だってさぁ」
不満気味の二人に、倉科は心底呆れた。
「とにかくダメだからね。知らなかったときと同じ状態でいなさい」
「あのねぇ倉科さん。人っていうのは、知らなかったときには戻れないんですよ。のちの心にくらぶれば、って言うでしょ?」
それには何も答えず、ひとつ、深いため息をつく。
だが倉科が気にしていたのは、単に個人情報の問題だけではなかった。
―― 余計なものは見ない。
過去の経験から、倉科はある種の戒律のように、それを胸に刻んでいた。その意味では金澤が口にした和歌の一節は、的を射ている。百人一首の、あれは確か、恋の歌だっただろうか。
倉科は、その人のことを思い出した。
恋ではなかったけれど、恋に近かったような気がする。
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