去る人、想い続ける人

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 着信音で目を覚ました。体の節々が痛むが、耐えつつ身を起こす。布団がバサッと音を鳴らした。  軽快な音楽が部屋中に響く。どこにスマホ置いてあるんだろう、と散らかった部屋を裸足で歩く。音源を頼りにそれを見つけると、俺は相手の名前も見ずに電話を取った。 「はい」 「あ……。私、砂原(すなばら)だけど……。鈴野(すずの)くん、大丈夫?」 「砂原……?」  ボリボリと頭を掻いた。汗のためか、髪の毛がべたついていて気持ち悪い。後でシャワーを浴びないと、と俺は顔を(しか)めた。 「何、こんな朝早くどうしたの」  言いながら台所に向かい、冷蔵庫を開ける。食べ物は入っているが、全て数日前に消費・賞味期限が切れていた。思わず舌打ちしたくなったが、電話中であることを思い出し寸前で止める。賞味期限切れなら食えなくはないけど、今の気分じゃない物ばかりだ。俺は腹が減っている。  すると砂原は戸惑ったような「ええと」という声を上げた。 「だってほら、ずっと寝込んでたじゃん。だから大丈夫かなって電話を」 「ああ、それで……ありがとう」 「それに朝早くでもないよ。もう朝の十時」 「まじ?」  俺は厚いカーテンを開けた。辺りの埃が舞い散り、軽く咳き込む。窓の外には太陽がいて、上空から俺を見下ろしていた。眩しさに耐えかねて目を細める。  すると電話の奥からホッと息が漏れたのが聞こえた。 「鈴野くんが電話に出てくれて、安心した……」 「え?」 「だって鈴野くん、菜緒歌(なおか)が亡くなって……ずっとふさぎ込んでたから」  ハッとした。無意識に、棚の上に飾られている写真を見る。男女のツーショットだ。俺の顔の隣に、菜緒歌の微笑みがある。やりきれない思いが胸に広がり、俺は勢いよくその写真を伏せた。 「……ねえ、ちゃんと食べてる? ごめんね、お節介で。でも……」  砂原が保護者のように訊いてくる。それに対し、俺は「……そうだな」と電話越しに頷いた。 「分かった。でも今食料ないから、これから買い物に行くよ。ありがとな、心配してくれて」 「……あ、うん」  砂原の息遣いが耳の中で反響する。僅かな沈黙の後、彼女は「そういえば」と言った。 「今日の病院、ちゃんと覚えてる?」 「え、病院?」 「一週間前にも行ったでしょ。そのときに、また来週もって言われたはず……」  机の上の予定帳が目に入ったので、俺は慌ててそれを捲った。確かに今日の欄に『手神精神病院、二時』とひょろひょろの字で書いてある。予定をすっぽかしたのではと焦ったので、時刻を見てとりあえず安堵した。 「完全に忘れてた。教えてくれてサンキュ」 「何時から?」 「二時」 「……病院まで車で送ろうか?」と砂原が言った。 「だいぶ元気は出てるようだけど、やっぱりまだ鈴野くんを一人で病院行かせるのは心配だから……。私今日仕事休みだし、食べ物ないならついでに買ってくけど」 「え、それは助かる。ありがとう」  親切な友達がいることに感謝だ。数語話した後、俺は電話を切った。辺りを見渡し、さすがにやばいかなと散らかった服や本類を整理し始める。  床に広がっているノートに、とある殴り書きがあった。紙が凹んで見える、濃い筆圧だ。 『菜緒歌、どうして突然病気で ありえないありえないウソだウソだ』 「……」  心が軋む。口の中に苦いものが広がった。この字は間違いなく、この手が書いたものだ。  俺はゆっくり息を吐きながら、そのノートを閉じた。砂原に見せて、これ以上心配をかけたくない。  というかその前にシャワーを浴びたいんだった、と思い出した。砂原が何分くらいでここに到着するか分からないが、不潔なまま会うわけにもいかない。俺は蹴躓きながら小さな風呂場に飛び込んだ。
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