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『菜緒歌がいないこの世界で生きる理由がない。死にたい』――そんな声が聞こえて、俺は生まれた。
潜在意識の中に基本的なことはあった。だから、鈴野英輝という自分、藁井菜緒歌という彼女、砂原小夜という同僚かつ友達の存在は分かっていた。
そして、俺が生み出された原因である、菜緒歌が病気で突然死したという事実も、知っていた。
俺の義務は、あいつが生きられるように万全な体を準備し、代わりに前に進んで助走をつけておくこと。この体は、体調や精神が整ったらあいつにすぐ返す予定だった。俺は一時的だ。
……だけど、あろうことか俺個人の感情がむくむくと起き上がってしまった。
「今朝、精神病院に行った」と俺は言った。
「俺が鈴野英輝の別人格ってことを伝えてきた。……遠くの大きな病院の紹介状を書いてくれた。だから俺は、そこへ療養しに行こうと思う」
「……消えに行くってことだよね」
「ああ」
「……」
小夜は真っ赤に染めた目で俺を見つめている。俺は直視できなかった。
「ごめん。……俺はお前から離れないと、あいつに体を返せない気がするんだ。いくら体調が回復しようとも、感情が邪魔をして……。でも俺は、使命を果たさなきゃいけなくて」
言いながら、目の奥が痛くなってきた。胸の中が昂り、戸惑う。生まれて初めての気持ちだ。
すると小夜が、俺の肩をそっと持った。
「そうだよね。英輝が、自分の役割を果たさなきゃいけないのなら……私は、笑顔で見送るよ」
そう言いつつ、彼女の瞳からは涙が止まらない。俺は顔を手で隠し、俯いた。
「……小夜は、俺と出会わなければよかったって思ってる?」
「ううん」
首を振る音がした。彼女の鼓動が、掴まれている肩から伝わってくる。
「だって、出会ってからの喜びや楽しみは、別れの悲しさよりも絶対に勝ってるから。……ただ……」
「……ただ?」
「菜緒歌が亡くならなければ英輝に会うこともなかったのに、とは思う……。そう思うと、自分の気持ちがぐちゃぐちゃになる。でも、菜緒歌が亡くなったのは誰のせいでもないし、その結果英輝が生まれたのなら、もうそれは運命かなって……」
「運命……ね。そしたら、俺が生まれた価値はあったってことかな」
そっと指の隙間から目を覗かせると、小夜は「ありまくりだ、馬鹿」と少し怒った顔をしていた。
「鈴野くんと英輝の人格が交互に出ればいいのにって思ってる」
「……悪いけど、俺はそういうタイプの人格じゃないんだ」
「分かってるよ、言ってみただけ」
「小夜」
「……何」
「俺は遠くの病院へ、消えるために行く。じきに、元の人格が目覚めるだろう。そうなったら、鈴野英輝に会いにいってほしい。落ち着いてるとは思うけど、あいつに今の俺の記憶はないだろうから」
小夜は俺の肩から手を離し、目をゴシゴシと擦った。目の上に変な筋がいくつも入っている。
「……私が、鈴野くんに会いに?」
「小夜が嫌じゃなければ、支えてあげてほしいんだ。もう二度と俺が現れないように」
彼女はじっと俺を見る。今度は逸らさない。小夜の姿を、眼に焼き付けたかった。
彼女の喉が上下した。ゆっくりと口が動く。
「分かった」
それはとても真っ直ぐな言葉だった。彼女は泣きながらも微笑んだ。
小夜は、優しくて、強い人だ。
「ありがとう……」
俺は、思わず彼女を抱きしめた。体温が伝わる。
「小夜……あのさ、俺は」
言葉が、喉元まで出かかった。
でも、言えない。
気づいたら、俺の頬にも熱いものが流れていた。
情けない。別人格として生み出されてから、あいつのために強くなろうと思っていたのに、この様だ。
でも、今だけは許してくれ。
「小夜、俺のことは忘れていいから。……元気でな」
ほんの短い時間だったけど、小夜に出会えて良かった。
「……馬鹿」
小夜の熱い涙が、俺の肩に触れる。ぎゅっと抱き返された。それが俺の涙をさらに加速させた。
これが最後だ。
本当に今までありがとう、小夜。
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