富士の妙薬

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富士の妙薬

 富士山の頂上には不死の妙薬があるらしい。  探しに行こうよ、なんて軽口を叩くお前に、冗談だろうと返したのは昨夜の話。   きっと互いに疲れていたのだ。  深夜0時を回ったオフィス、終わりの見えない仕事、飲み飽きたコーヒー。その全てに。  だからこそ笑って冗談だろうと返した。こんな生きづらい社会で、不死になんてなりたくはないと。 「そっか」  お前はたった一言そう言って、またパソコンに齧り付いた。深夜特有の、なんてことない与太話。  この話はここで終わるはずだったんだ。 『不死の妙薬を探しにいきます』  朝一番。  会社のパソコンに、一斉送信されていた不可思議なメール。差出人なんて見なくても直ぐにわかった。  トイレの狭い個室の中で、何度も何度も電話をかける。  あの一文にどんな意味があるのかは知らないが、富士山なんて単語を聞いて、冷静でいられるはずがない。富士の樹海といえば有名な自殺のスポットではないか。  ……それが一番に思い浮かぶあたり、俺も大概やられてるけど。  結局電話は繋がらず、いつまでもトイレに篭っていた俺は、上司に呼び出されて叱責をくらった。  冗談じゃなければ、そう言ってくれれば良かったのに。怒号を浴びせられている最中も、パソコンの画面を眺めている最中も、頭の中を占めていたのはその感情だけだった。  だってそうだろう。冗談ではなく本気だと、そうひとこと言ってくれたらーー 「俺も一緒に死んだのに」  ぽろりとそんな言葉がまろび出て、自分でもすこし驚いた。  思えば、同期が次々と辞めていく中で、俺とあいつだけがこの会社にしがみついていた。  転職する勇気もなく、かといって上司に意見するような度胸もない。  泥水を啜るような生活の中で、同じように心を擦り減らすあいつに、いつの間にか依存していたのかも知れない。  窓いっぱいに差し込むオレンジ色が、やけに眩しくて目を細める。  俺にとっては、ブルーライトより夕日のほうが目に痛い。働かない頭で、それでも指を動かしていると、場違いな通知音がその場に響いた。 ぴろん  スマホの通知は消しておけ。なんて、もっともな言葉は耳に入らず、ただ軽快に響くその音が、心臓を大きく脈打たせた。  きっと、あいつからじゃない。バズっている投稿のお知らせか、はたまた新着のニュースなのか。  わざと期待しないように、それでも高鳴る鼓動のまま、裏返していたスマホを手に取った。  初期設定のままのホーム画面に表示されるのは、緑色のメッセージ。 『画像が送信されました』  ただそれだけの、でもそれ以上の意味がある言葉だった。  周りの目なんて気にもせず、震える指でスマホのロックを解除する。二回ほど間違ってしまったけれど、三度目の正直でようやく開くことができた。  空色の背景に、不思議な色の写真がひとつ。雲が一面に広がる世界で、赤とも紫とも取れないような、そんな景色が広がっていた。  死後の世界ってやつか。  ぼんやりと頭に浮かんだのは、そんな縁起でもない言葉。またぴろんと音が鳴って、今度は写真ではなく、いくつかの文字が送られてきた。 『不死の妙薬、見つけたからお裾分け』  なんだ、生きてたのか。  ホッとしたようなガッカリしたような気持ちになって、止めていた呼吸を吐き出した。  ぴろんぴろんと、尚も止まらない通知音がうるさくて心地良い。 『今度は一緒に探しに行こうぜ。断られても何回でも誘うからさ』 「馬鹿、そこは死んどけよ」  思ってもいない言葉を吐きながら、パソコンの電源ボタンに指を当てる。  後ろから近づいてくる靴音は、さながら月からのお迎えといったところだろうか。……それにしては、すこし荒々しすぎる気もするけれど。 「お前ッ! 仕事中に何をーー」 「俺、今日でやめます」  不思議と声は震えなかった。  こんなオフィスのど真ん中で、いったい何をやっているのか。  パソコンの電源すらもぶち切りして、社会人失格……というか、人間的に失格だ。痛いほどの視線が突き刺さる中、鞄を持って立ち上がる。  どうせ後悔するだろうけど、ここまできたら、不死の妙薬とやらに縋ってみたい。  何度も死んで、生き返って。その永遠の生のなかで、あいつともう一度、馬鹿みたいに笑いあえたら、それでいいと思うのだ。  感情を失くす羽衣を脱ぎ捨てて、月から飛び降りたかぐや姫。その死に様はきっと神のみぞ知るだろう。  ……なーんてな。
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