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フラッシュバックにさようなら
ちかちかと、目の裏で白い何かが爆ぜている。
茹だるような暑さ、蝉の声、目に痛いほどの緑たち。それらすべてが色を増して、まるで帰ってこいと呼ぶように。
「……い、おいっ! 大丈夫かよ」
「ん、ごめん。ちょっとふらついただけ」
「お前この時期いつもだよな。……ちゃんと朝飯は食ってきたのか?」
「うん。卵焼きとちくわ」
「馬鹿! 米を食え米を!」
心配性な友人を安心させるように笑いながら、壁に手をついて立ち上がる。
夏になると毎年起こる謎の貧血。表向きはそう話しているのだが、実際は少し違っていた。
覚えのない記憶──それも同じような場面ばかりが、頭の中で、何度も何度も再生される。その度に全身の血がサァッと引いて、とても立っていられないのだ。
「鉄分の薬とか貰った方がいいんじゃねぇの」
「うーん。でも、毎日ではないからさ」
「お前……年々酷くなってるの自覚しろよ。昔は月一とかだったのに、最近はほぼ週一だぞ」
「そうだっけ?」
「そうだよ!」
無頓着というわけではないが、こうも続くと、数えることすら面倒くさい。だからこそ、自分の代わりに友人が、ここまで心配性になってしまったのかもしれないけど。
「ごめんごめん、来月にはちゃんと病院行くからさ」
「ほんとかぁ?」
「本当だよ。俺そこまで信用ない?」
「ない」
「ひどっ……!」
けらけらと二人笑いながらも、心の奥底には、まだあの風景が引っかかっていた。
鮮やかな夏の景色に溶ける赤、#連連__れんれん__#と続く鳥居の、その異様なまでの美しさが。
▽
「荷物は全部持ったの? お土産は?」
「もう、大丈夫だって。ちゃんと全部準備してるよ。お土産もほら」
「でも一人で行くなんて初めてだし……」
「母さん、俺もう高校生だよ? 電車で二時間くらい全然平気」
いつまでも引き止める母にムッとして、少し強気に言い返す。友人といい母といい、自分の周りには何故こうも心配性の人間が多いのだろう。
「もう行くね。電車乗り逃しちゃうし」
「……気をつけて。変な人には着いていっちゃ駄目よ」
「あははっ、俺のこと何歳だと思ってるの?」
いってきまーす。
おどけたように呟いて、玄関のドアを押し開く。途端に押し寄せてくる暑さの波が、嫌になるほど夏の盛りを思わせた。
季節は夏、ついでにいえば夏休みだ。
▽
田舎特有ともいえる広い庭。
乱雑に置かれた植木鉢の右から三つ目を手に取れば、その下には小さな鍵が置かれていた。事前に聞いてはいたけれど、なんだかゲームみたいでわくわくする。
「ばあちゃーん! 来たよー!」
大声で叫んでみても、不思議と返事は返ってこない。そのかわり、リビングの古いテーブルには書き置きが一枚ぽつりとあった。
要するに、買い物に行ってくるからくつろいでいてと、そういうことらしい。
「もー、せっかく涼めると思ったのに」
クーラーがついていないどころか、窓すら閉め切られていたために、室内はかなり蒸し暑い。風がある分、まだ外の方がマシなくらいだ。
「……あ、いいこと思いついたかも」
そういえば、家の裏手にある山に、綺麗な小川があったはず。他に遊ぶような場所もなかったから、子どもの頃は、よく入り浸っていたものだ。
「久しぶりに、行ってみようかな」
そうと決まればあとは早く、タオルとスマホだけを引っ掴んで、蒸し暑い家から飛び出した。
▽
歩き始めて五分ほど。
足を踏み入れた森の中は、不思議と、どこかひんやりしていた。木陰が多いからだろうか。さわさわと木々が風に揺れる音も、涼しげで心地いい。
「えーと、確かこのあたりに……」
大きな道に沿って進んでいけば、数分もしないうちに、綺麗な小川な見えてくる。少々小さめではあるが、一人で涼むには十分だ。
そう、一人で涼むには。
『榴夏は本当にここが好きだねぇ。僕も寂しくないから嬉しいよ』
「あ……れ……?」
『あっちにね、僕の住んでるお社があるんだ。もし興味があるなら行ってみる?』
視界に被る、何かの記憶。波打つ水がきらきらと、ちかちかと、眩しいほどに輝いていた。
何故だか目の奥が熱くなって、それなのに、体は反対に冷えていく。あ、駄目だ──と。そう思った時には遅かった。
「遅かったね、榴夏」
真後ろからかかる声は、やたらと甘く、なのに冷たい。
「ずっと呼んでいたのに、なかなか来てくれないんだもの。君がいなくなってから、今までずっと、寂しかったよ」
「……ひ、よ…りさん……」
「偉いね、ちゃあんと覚えてる」
するりと頬を撫でられて、無理やり上を向かされる。血のように赤い瞳と目が合えば、もう逸らすことなど出来なかった。
「ふふっ、恐れを知らない、愚かで可愛い人の子ども。出会った頃はあんなに小さかったのに、こぉんなに大きくなるなんて」
直接、流し込まれるその声に、手足の震えが止まらない。目を逸らすことも、逃げることもできないまま、必死に口だけを動かした。
「ごめ、ごめんなさい。おれ……かえらないと」
「…………嫌だなぁ、僕は言ったよ。記憶を消してあげる代わりに、もし次に近づいたら、今度は逃してあげないって」
開いた口の隙間から、蛇のような舌がちろりと覗く。きっと、フラッシュバックは、もう起こらない。
けれど、けれどそのかわり。
──蛇は獲物を大切に、巣穴へと引き摺り込みましたとさ。
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