菊花と桜花の恋文

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「邪魔するよっ!」 「へい、いらっしゃいませ……って、あら、今この界隈で噂の旦那じゃないか? 今日は、どんな御用向きで?」  色町を徘徊していると有名な大店の旦那が、代筆屋であるうちの戸を開けた。  大きな看板をあげているわけではないのに、迷わず入ってきたことに少しだけ驚く。下町に来るような人ではないはずなのに。  最近、戸口の滑りが悪いのか、声をかけられなくても、誰かが入ってくることがわかる。おかげで、外からこっそり覗いている者がいるとか、誰かが入ってくるのはわかるので助かっているのだが、金払いの悪い人なら居留守を使うこともある。 「御用向きでって、この店に来る理由なんざ、ひとつしかないじゃないか。代筆を頼みに来たに決まっている」 「そりゃそうだ。ここは、代筆屋だからねぇ。仕事の話なら伺うよ」  クスクス笑いながら玄関へと向かえば、中に入ってきた旦那もつられて笑っていた。 「代筆屋」 「へい、なんでしょう?」 「噂に聞けば、あの花魁ですら唸ったというほどの歌を歌ったと聞いたが、本当か?」 「やだねぇ……旦那は。そんなどこの誰だかわからぬ人が言った誇張話を信じているのかい?」 「はっはっはっ、そうは言うな。代筆屋の噂は花街では有名。話上手に歌上手、字が綺麗だと言う話ももちろん聞いている」 「そうかいそうかい。そりゃどうも。商売、益々繁盛の予感だねぇ?」 「あぁ、そうなるだろう。何人も代筆屋に頼んで、コレとの仲を取り持ってもらえたという奴らをよく知っているんだよ」  小指を立てて、ニヤついた顔をこちらに向けてくる。  ここにくる人は大体同じような表情をする。見慣れた表情であっても、未だに慣れないものだ。 「……世辞を言ったところで、何もでやしないよ?銭は、まけないしね?」 「そりゃ残念だ」 「何をおっしゃい。旦那ほどの人が、日銭稼ぐ代筆屋にケチつけてたなんて評判が広まったら、花街でもたいそう有名になるだろうよ?」  皮肉を言ってやっても、本当に残念そうにはしておらず、ただの挨拶程度の話をしていたに過ぎないとばかり。旦那の目を見れば、笑っていないんだから、私自身が見定められていたのだろう。 「旦那、まけないからといって、そんな怖い顔はしないでおくれ。些細な感情で、手紙は書きますからね。そんなすわった目をされてちゃ、こちらが緊張して、いい恋文はかけないだろ?」 「おやぁ? 代筆屋でも緊張するのかい? まぁ、確かに睨みをきかせてたらそうだろうなぁ……。そんな恋文は、花には届かないだろうな?」 「花にねぇ? どんなものでも、愛方が書いた手紙をもらう方が、喜ぶってなんで思わないんだろうねぇ?」 「さぁな? 花街に通う男なんて、見栄を張りたいんだから、代筆というのも、見栄のひとつだろう。こんなにいい代筆屋を抱えているんだぞ? ってな具合で。なんせ、代筆屋の手は、花魁の目にとまったんだから」 「……花魁?」 「あぁ、知らないのか? 菊乃花魁だよ」 「知っているとも。久方ぶりの三拍子そろった花魁だと、根っからの噂さね? 花魁道中は、男だけでなく、女ですら足を止めて見入ってしまうとか」 「あぁ、そうだ。知る限りでは、伝説の花魁『桜花』以来の逸材だと、みなが騒いでいる」 「くすっ、あの菊花がね?」  懐かしい名に、ボソッと思わず仇名が口から出てしまった。 「何か言ったかい?」 「いいや。それより、菊乃花魁の目に私の手が止まるだなんて、なんの冗談だい? よしておくれよ!」 「菊花とは、一言も言ってないが……まぁ、いい」  わざとらしくならないよう、旦那の冗談に思わず笑うと、1つの扇子を渡された。  私は、差し出されたその扇子を見たことがある。そこには、歌という名の手紙が認めてあった。 「……これは?」  悪びれることなく、「なんなのさ?」と問うと、真剣な顔でこちらをじっと見てきた。 「どうしたんだい? 怖い顔なんてしてさぁ? そんなんじゃ、色街で声がかからないだろうに?」 「ふんっ! お前さんが心配してくれなくても、これさえあるとわかりゃ、よってくるもんだ」  指で輪を作り、銭の形を取る。花街へ通うなら、当然必要なものだが、私はとうに、縁遠くしているものだった。 「よくいうよ、そんなもん、ちらつかせてさ?」 「そうかい、そうかい。これがなきゃ、黒門を超えては行けないからなぁ」 「それはそうだけど、私のことを代筆屋だからって、安い女だと思わないでくれるかい?」 「何を? 代筆屋をそんなふうには思ってはいない。見たところ、かなりの器量よしだとは思うが……、まぁ、いい。それを開け。菊乃花魁からの返礼だ」  扇子を少しずつ開く。そこには、なかなか会えない花魁への恋慕と男一人寝の寂しさを書いた句が書かれている。  もちろん、私が書いたものだが、シラをきるに限る。  ……我ながら、うまく書けているわ。  関心しながら、じっくり読んでいた。まさか、手元に戻ってくるとは思わなかったから。 「そっちじゃねぇ! 裏だ裏! 花魁が手紙ではなく、その扇子の裏に返事を書いたんだ。読んでくれ!」   雪解けの 冷たし水に なみたふく   来ぬ人 待ちぬ 紅窓で   花乱れ けふもとう いつこへと   忘れ人 別れて 黒門で                     菊花 「……こりゃ、返事も恋歌だね?」 「そりゃ、馬鹿でもわかる。教えてくれ」 「何をだい?」 「これを書いたのは、あんたか?」 「私がかい? そんなわけあるか。どこぞの刀差しが、花魁に送ったものだろ? もし、書いたとしても、知っているだろ? 私の仕事。代筆をするだけだ。旦那が言った言葉をちょっと時間をもらって書いて、日銭を稼ぐ。たったそれだけさね?」  それでも私を食い入るように見ている。胸元から、扇子を出してきた。 「これは、俺が唯一花魁だった人の座敷に上がったとき、余興でくれたものだ。見覚えは?」 「これも、見事な扇子だねぇ……。あら、もったいない。こんなところに書くだなんて」 「そうかい? 俺には、花魁がこの歌を入れたから、この扇子には価値あるものに変わったと思うが……桜花という名を入れてな」 「…………桜花。……価値を決めるのは、他の誰でもなく、この扇子を持っている旦那だ。私では……ほら、扇子」  手渡されていた『桜花』と書かれた扇子を押し付けるように旦那へ返す。 「ほう、その様子、見覚えがあるのか?」 「……何いってんだい! こんな高価なもん、見覚えがあるわけがないだろ?」 「そうかな?」  細めた目が、私を捉える。何か探りを入れられているのでは? と、先ほどから感じてはいたが、間違いない。  何を調べているかわからないが、菊乃花魁との関係ではないだろうか。それとも、私のことを調べているのだろうか? ……どちらにしても、しらをきるにかぎる。 「そうに決まっているじゃないか。何を言い出すかと思いきや、旦那、まだ、日は高いですよ!」 「はっはっはっ、そうだな。その菊乃花魁からの返歌が書いてある扇子は、今晩の駄賃だ。今から言うところへ向かいな。菊乃花魁が、あんたを待っている!」 「……なっ!」  一方的に話をしたあと、旦那は「邪魔したな」と、返事も聞かず、出て行ってしまった。  駄賃だと言って置いて行った扇子をもう一度広げてみる。   夜毎咲く 桜花ちりぬ 待ち侘びて   君思ひ 袖重く  満開の桜を彷彿させるような、扇子には、涙のあとが残っている。 「……お菊」  私は、あの場所から出されたとき、1番に慕ってくれていた女の子がいた。「桜ねぇさん」と何度も呼び、私の後をついて回っていた。  その女の子は、菊乃という源氏名をお母さんからもらい、私が『菊乃』の育てになった。 「桜花ねぇさん、桜が咲いたら、また、会いにきてくれますか?」 「……お菊が、花魁にまで上り詰めたら、迎えにきてあげるよ」 「きっと、きっとですよ?」  桜が咲いた頃、身請けされた私の着物の袖にしがみつき離さない菊乃。涙ながらに、1番大切に着ていた桜の着物を菊乃に掛けた記憶が蘇る。 「……私には」  扇子を開き、私が書いた手紙とは反対側を読んだ。  返歌が書かれた扇子に触れる。  菊乃へ書いた手紙は、どんな旦那からの依頼であったとしても、全て、私の手紙として書いていた。私の想いを込めて書いたものばかり。  普段は、旦那の言葉を代筆するだけなのに、菊乃宛の手紙だけは、特別な依頼として受けていたのだ。  その手紙を見て、菊乃は懐かしみ、旦那は菊乃の反応に喜び、商売益々うまくいく。 「桜の木の下か。今日は、菊乃花魁が道中をする日だね……」  はぁ……と、誰もいない部屋で大げさにため息をついた。ゆっくり立ち上がって、私が持っている最高級の着物を部屋の奥にある箪笥から引っ張り出す。  丁寧包んである包装から取り出せば、鮮やかな桜色。  総絞り、桜舞い散る柄は、花魁になった記念にと、当時の愛方にいただいた最高級のものだ。  源氏名通りの桜花は、咲き狂うかのように私を彩る。 「白粉を叩くのも久しぶりさね。あの頃は、毎日、していたのに」  押し入れの奥から引っ張り出した化粧品は、どれもこれも高級品ばかりで、町民風情が手に入れらるような品ではない。  鏡を出し、紅をひく。紅すぎるそれを紙に馴染ませれば、綺麗な色だ。  旦那が置いていった扇子を開く。 「あの子、私のことがわかるのかしら? まだ、待っていてくれるかしら?」  町に出てからというもの、質素に暮らす日々だった。身請けされたものの、気楽に暮らしたいと、屋敷を出させてもらった。と、いうのも、私は、あの屋敷……城では、存在してはならないものだったから。大金と私の一部を置いて、逃げるようにこの町で暮らしている。  愛方にもらった着物や装飾品を売ったり、代筆屋として稼いで溜まったお金を袋に詰め、帯に扇子を挟む。 「さて、うじうじしていても仕方がない。約束の場所へ行きましょうか? まずは、お母さんのところへいかないと。約束通りに」  立ち上がり、建て付けの悪い戸を閉めると、お隣さんとバッタリ会ってしまった。私の格好を見て驚いている。 「あら、まぁ……素敵な着物」 「えぇ、一張羅なのよ」 「桜ちゃんにとても似合っているわ? 今の季節には、少々早い気がするけど……」 「そうねぇ……桜は、年によっては、狂い咲く花もあるから、私のように」  俯く私に、お隣さんは微笑んでくれた気がした。 「気をつけて行ってらっしゃい」  手を振る隣の家人に頭を下げて、お母さんのところへと急ぐ。 「まずは、この黒門。懐かしい。黒門を出るために、どれほど努力したか……芸は誰にも負けない、話術も、もちろん……」  躊躇いながらも、足を踏み入れた。女がこの門を潜るときは限られる。この場に売られることのほうが多く、それから、この黒門から出られる女は、年に片手もいない。花魁道中がある日だけは、女でも中を歩くことを許される。  狂った世界に身を置き、狂ったように金で自身を満たしていたあの頃を思い出す。  ブルっとひと震えしてから、黒門をくぐり抜ける。 「桜の姉さん!」 「あぁ、久しぶりだね? 誰かの迎えかい?」  私がいた店の下男が、誰かの旦那を迎えに来ていた。顔馴染みを見て微笑み、別れを告げてお母さんに会いに行く。 「お邪魔するよ?」 「へい、おま……ち……桜花花魁っ!」  私の顔を見たとき、お父さんが驚いて名を呼んでしまった。その場にいた遊女たちがこちらを見る。ここを離れて、もうすぐ3年。随分衰えたと自身では感じていたから、とても恥ずかしい。 「いやだよ! お父さん。私は、もう、花魁じゃないよ?」 「……そうだった。その、驚いてしまって。それで、外で何かあったのかい?」 「何も」 「それじゃあ、戻ってきた……と、言うわけではないんだな?」 「もちろんさね? 私は今でも、あの方のいい人。お父さんが心配することなんて、これっぽっちもないよ?」 「そうか……それなら、よかったが。ところで、何をしに?」 「あぁ、ちょいと、花魁の身請けについて、お母さんに聞こうかと思ってね? 約束をしていたんだ」 「……花魁の?」 「そう。どれだけ、旦那にふっかけたのか、今の相場も」 「今の相場か。まぁ、ざっと、こんなもんだな? 菊乃だったら、そろそろ買い手がつくころだ」 「次の花魁はもう、決まってるのなら、菊乃はいらないだろう?」 「そうは言っても、この店から出た久方ぶりの花魁だからね? 桜花に次ぐ花魁なんて、この世界狭くてもいやしない」 「褒めてくれても、何もないよ?」  クスクス笑っていると、お母さんが出てくる。私を見た瞬間、驚いた顔をした。 「……本当に迎えに来たのかい? 菊乃を」 「えぇ、そうだけど……身請け金っていくらかしら?」 「……奥へ来ておくれ。その顔、今日中にも連れて帰るつもりなんだろう……忌々しいね?」 「お母さん、ごめんね」  私は、お母さんの後ろをついて歩いて行く。 「菊乃の身請け先は、何件か上がっていたんだ。そのどれよりも高い金額なら、桜花、あんたのものだ」 「いくらだい?」  お母さんが、5と手を出してきた。この額なら、500両のことだろう。 「わかった。500両でいいの?」 「あぁ、そうだ。それでいい。他の誰もその額は出せやしない。雲の上の人から身請けをされたあんたとは違って、せいぜい300両がいいところだ」 「そうかい。じゃあ、その500両」 「もう、預かっているじゃないか。499両は」 「そうだったね。じゃあ、これで……500両だ」  小判を渡し、私はお母さんから菊乃の権利書をもらう。確かめると、既に私の名前が権利書には書かれていた。もしかしたら、他に身請けさせるつもりは、なかったのかもしれない。 「確かに。いただいきました」  私は、胸にそれをしまい、立ち上がった。 「……元気にしているかい?」 「おかげさまで。子とは、会えないけど、立派になったと伝え聞いているよ」 「あぁ、お姫様の代わりに生んだ子だね?」 「まさかね? 自身の子が刀さし……それも、あんなに高いところにいるだなんてと考えると、怖くなるよ」 「これから、どうするんだい?」 「この町から離れることにするよ。お金は、まだ、あるし。いつ、あの人の周りの気が変わるか、わかったものじゃないからね。お母さん、元気でいてね?」 「あぁ、桜花も」 「ははっ、今は、もう、その名じゃないよ」 「そうかい。達者でな?」 「……さようなら」  私は店を出て、この街にある桜の木の下へ向かう。そこから、花魁道中がよく見えるのだ。菊乃が初めて花魁道中をすることになった日に見に来たことを思い出す。 「いつの間にか、そんなになってしまったんだね……」  まっすぐ、私の方を見て、菊乃がほんのり微笑む。旦那にもらった扇子を広げ、「帰ろう、私たちの家に」と口にする。  今度こそ、嬉しそうに笑う菊乃。花魁が笑ったことで、男衆には緊張が走り、観客は見惚れていた。  菊乃の道中が終わり、店に入ったので、私も勝手口のほうへ回る。 「最後の道中……」 「何もお言いなさんな」 「……お母さん」 「今晩、部屋に上がる人はいない。この着物を着て、黒門から出てお行き。二度と返ってくるんじゃないよ?」 「……お母さん!」  少しぐずったように鼻を鳴らす菊乃の背中をポンポンと優しく叩く。私が、身請けされ出ていった日も同じだったこと、目尻に溜まるものがあった。  しばらく、勝手口のところで、昔のことを思い出す。どこに行くのも菊乃が後ろをついて歩いたこと。おつかいにだしたら、変な人を連れてきてしまったこと。その相手が、まさかの人だったことなど、懐かしい。 「……お世話になりました」  勝手口から、ひっそりと出てきた菊乃に声をかけると、とても驚いていた。 「桜ねぇさん!」 「うん、迎えに来たよ。遅くなったけど……」 「全然です! ずっと、待っていましたから」 「荷物は、それだけ?」 「はい、ねぇさんがくれた菊花の着物と桜の打掛だけあれば、他は……」  少ない荷物とはいえ、抱えるほどにはある荷物を菊乃から渡してもらい半分持つ。 「帰ろうか、家に」 「はい。でも、その前に……桜の木を」 「あぁ、いいよ。行こう!」  菊乃の手を取り、繋いで歩く。店の近くにある桜の木は、季節ではないのに狂い咲いていた。 「もうすぐ、散っちゃうね?」 「桜の時期は短いんだ。ましてや、狂い咲きとなりゃね」 「桜ねぇさん……」 「なんだい?」 「ずっと、ずっと、好きでした。この桜の木の前で出会ったときから」 「……ずいぶん、子どもだったと思うけど……」 「今も、子どもですよ。桜ねぇさん。私、この桜に誓います。この先、何があっても、桜ねぇさんと一緒に……」 「あぁ、そうだね。お菊」 「はい、桜ねぇさん」  その後、黒門を二人で出た。振り返ることはせず、まっすぐ、家へと帰る。途中、見たことない景色に菊乃が騒いだが、止まって説明をしていく。体は大きくても、外に出たことがない菊乃の中身は子どものようだ。 「そういや、名前、どうする?」 「……菊花がいいです。桜ねぇさんと同じ花をつけたい」 「わかったよ。でも、呼ぶときは、お菊と呼ぶからね?」 「はい、それで。私も、桜ねぇさんと……」 「桜でいいよ」  そういって、建付けの悪い戸を開く。黒門を出てから3年。この日が来るのを私も何度も想像して、待っていた。先に家に入り、ニコリと笑う。 「おかえり、お菊」 「……ただいま、桜ねぇさん」  戸を閉め、菊花をきゅっと抱きしめたのである。  ◆ 「代筆屋っ! 邪魔するよ。菊乃花魁が、この前の道中をした日に身請けさ……れたって? えっ?」  部屋がやたら綺麗に片付いているのを見ながら、気配を探るが、どうも人がいる様子はない。 「……こっちも、消えたのか?」 「……もし?」 「なんでしょう?」 「桜ちゃんから手紙を預かっているんだけど、渡す相手は、旦那さんでよかったかい?」  渡された手紙の宛名には、名があったことに驚いている。一度だけ、大店の旦那衆になった祝いの席に『桜花花魁』が座敷に上がったことがあっただけの繋がりしかなかった。  たった一度のことを覚えてくれていたことに、驚きを隠せないでいたのだ。 『 手紙で挨拶すること、お許しください。   先日、伝えていただいた日、長年躊躇していた菊乃の身請けをしてきました。   恥ずかしい話、菊乃から向けられる好意の意味を考え続け、代筆を通して菊乃への気持ちを確かめていました。   ずっと、二人で生きていくことに決心がつかず、菊乃を迎えに行くことができなかったのです。   あの日、旦那が訪ねてきてくれたこと、菊乃からの返事を読み、ようやく決心がつきました。   扇子を届けてくれたこと、感謝しております。   身請け先の公表は、してはいけないならわしですので、菊乃の身請け先についてもお控えくださいますようお願いします。   私自身、身請けされた身ではありますが、少々特殊でしたので、これを機に、菊花と共に旅へ出ます。   二人手を取り、これから生きていくことになりますが、心機一転、新しい場所で生きていきます。   旦那もお達者で……。                                                  桜花   』 「身請けされているとは思っていたが、菊乃の身請けは、桜花花魁だったのか。その桜花の身請けは、……雲の上の人。どだい、敵いっこない話だ。  菊乃改め、菊花か。いい名だ。  ……桜花、菊花。達者でな……」  手紙をたたみ、そっと胸元へ挟む。戸口に置いてあった扇子を持ち、元来た道を帰った。  大きな夕日を見ながら、二人も見ているだろうか? と微笑み、寂しい心に蓋をする。眩しい夕日を遮るように、桜柄のの扇子を開き、頬を伝うものを隠した。  - 終 -
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