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その1
グツグツと煮える夕飯のすき焼きを囲んで、家族三人の笑い声が響く。
「母さん。ご飯、おかわり貰えるか」
「あら、もう三杯目よ」
「お父さんったら、また太っちゃうんじゃないの?」
「え、そうかぁ? でも、母さんのすき焼きは美味いからなぁ」
どこの家庭にでもあるようでない、掛け替えのない時間。さながら家族水入らずと言ったところだろうか。
しかし、幸せそうに見えるこの家庭には一つ大きな問題があった。
食卓を囲んでいる、父と母と娘。この三人、実はお互いの名前すらも知らない、全くの赤の他人なのだ。
どうして、この他人である三人が夕飯に家族として、すき焼きを食べる事になったのか、それは今日のお昼の出来事に遡る事になる。
休日のお昼過ぎ、晴天に恵まれた閑静な住宅街。そこにスーツ姿で鼻歌混じりにスキップする、この後に自分が大ピンチに陥るとは夢にも思っていない、馬鹿な男の姿があった。
「いやぁ、天気にも恵まれて絶好の泥棒日和だなぁ」
この男の正体は泥棒である。
留守の家を狙ってはその家の金品を盗むセコい仕事をしているが、後にあの家族の父親となる男である。
今日、この男は『とある家族が数日間旅行に出掛ける』と言う情報を聞きつけ、その家へ空き巣にやって来たのだ。
「おっと、成田さん。ここだここだ」
男はターゲットの家の前でセールスマン風の雰囲気を醸し出し、インターフォンを押した。
「ごめんくださーい。成田さん、留守ですか? 留守なら、泥棒が入りますよ」
男は家に人がいないのを確認し、白昼堂々と表の玄関から家の中へと忍び込んだ。
玄関の靴はほとんど空の状態。絵に描いたように誰もいない。シーンという音だけが響く、家中のものが家主がいない間、眠っている時間だ。
「さーて、何処から手をつけようかなぁ。どうせ、誰も帰って来ないんだから、泊まり込みで一個づつしらみ潰しに……」
しかし、その時、男の心臓が大きく鳴った。
その家にあるはずのないモノを男の泥棒としてのセンサーが嗅ぎ付けたのだ。
二階?
ドン ドン ドン
二階からゆっくりと階段を降りてくる、足跡。
誰もいないはずの家で聞こえるはずのないものに、油断して廊下をスキップしていた男の体は硬直した。
そして、オバケでも見るように恐る恐る後ろを振り返ると……階段にこの家の母親らしき女性が泥棒の方を見て、驚いた顔をして立っていたのだった。
咄嗟の事で頭が真っ白になった男。
ここで奇跡を起こさなければ、刑務所行きは免れない。人生崖っぷちの場面で、逆境にめっぽう弱い男は、気が動転し、思いもよらぬ一言を女性に投げかけたのだ。
「た、ただいま!」
男はさも『この家の人です』と言わんばかりの言葉を女性に投げかけた。女性は、男のその無謀とも思える一言にポカーンと階段に棒立ちになった。
「ただいま!」
それでも男は続けた。もう、残された道はこの四文字しかないんだ。この四文字を突き通して、この家の住人という事にして、隙を見て、逃げるしかない。
「ただいま! ただいま! ただいま! ただいま! ただいま! ただいま! ただいま!」
もう、戦場の最後の一人になった兵士はマシンガンの敵兵ら相手に泥団子を投げるような無謀な攻撃だが、男はこのただいまを連打するしかなかった。
すると、それまでキョトンとしていた女性が突然、ハッと正気を取り戻し、男に向かってこう言った。
「お、おかえり?」
「え?」
半ば諦めていた男は女性が発したその一言に逆にポカーンとしてしまった。
「おかえり!」
「た、ただいま!」
「おかえり!」
「ただいま!」
女は階段を駆け下り、廊下の男と帰宅を分かち合って、抱き合った。
なんと男が目を瞑って振ったバットは、今世紀最大の奇跡を起こし、人生の代打逆転サヨナラ満塁ランニングバントホームランをかましたのであった。
男は、自分が偶然この家の主人と顔が似ていて、運良く間違えられたのだと推察し、ホッと7トンくらいの重さがあった胸を撫で下ろした。
「あぁ、ビックリした。アナタ、今日は早かったのね?」
「ああ、そ、そうなんだ!」
「もう、泥棒かと思ったわよ」
「そんなワケないだろ! こんな昼間に忍び込むバカな泥棒がいるか?」
二人は顔を見て笑いあった。
「母さん」
しかし、男は急に真面目な顔で女の方を見た。
「はい?」
「……ただいま」
「……おかえり」
「ただいま!」
「おかえり!」
そして二人は、どっちが促すでもなく『イエーイ!』と自然にアメリカ人みたいなハイタッチを交わした。
「お、お茶を淹れますね!」
「お、おう! 頼んだ、母さん!」
二人は台所へと移動し、男はテーブルの適当な席に座り、女は台所に立った。
「……お茶を淹れますからね」
「おお! 玄米茶を頼むぞ、母さん」
しかし、女は一向にお茶を淹れるそぶりを見せず、ずっと男の方を見てニコニコと笑っていた。
「母さん?」
流石に男も少し心配になった。ロボットなんじゃないか、この女と思った。
「あの…………………………あの、お茶を……」
「わかったから、早く淹れてくれ、母さん!」
お茶を淹れるとは口で入っているモノの、一向に行動に移す気配の無い女に、男は不思議な気持ちになった。
「あ、そうだ! アナタ、帰って来たんだから、スーツを着替えて来てもいいんじゃ無いかしら? その間にお茶を淹れておきますから」
「お、おお! 確かにそうだな。自宅に帰って来て、スーツでお茶を飲むのもおかしいな! じゃあ、そうさせて貰うか」
と、男はクローゼットが何処にあるかは知らないが二階へ上がって行った。
「なるほど、辿々しかったのは、俺がスーツを一向に着替えようとしないからだったのか。危ない、危ない。
ていうか、旅行だったんじゃないのかよ。なんで奥さんが留守番してるんだ?」
そう言って男は二階の部屋を全部開けて、なんとか主人用らしきクローゼットに辿り着き、テキトーに着替え始めた。
が、サイズが全然違っており、男にはサイズが小さ過ぎる。ピチピチな上にお腹が出てしまっている。他のTシャツ、どれを着ても同じであった。
「Tシャツのサイズが全然違うんだが。なんで、こんなサイズが違う俺と主人を見間違えたんだ?」
そう思い、男は脱いだスーツを後で回収する為に一箇所に纏め、一階に戻る事にした。
「とにかく、変な女だな、この家の女房は」
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