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昭和27年 秋
昨日の夜遅くから振り出した雨が今朝になると激しい雨へと変わった。
ざあ~ざあ~と屋根を激しく打ちつける雨の音が耳障りで、いつもは早く起きない子供達も目を覚まし、白く靄がかかるほどの大雨を家の中から珍しそうに眺めている。
「酷い降りだな」
「稲刈りが済んだ後で良かったけ」
大人達は大雨の音を聞きながらため息交じりに話す。
「それにしてもこの雨はちと酷いな」
「ああ、稀に見る大雨け」
「川が氾濫せんといいが」
窓の外の大雨を見ながら、男は顔を曇らせた。
そんな大雨の中、一人の若い女が傘も差さずに走っていた。かなり急いでいるらしく、着物が濡れて体に張り付くのもお構い無しに転がる様に走っている。顔に幾筋もの髪の毛が張り付き、目に入る雨を何度も拭いながら女はひたすら走り続けた。
ようやく目的の場所に着いた女は、声を掛ける事もなく乱暴に板戸を開けると中に向かって「産まれちまう!」と叫んだ。
「ああ⁈」
中から衣擦れと共に不機嫌そうな声が返って来る。
女は同じ言葉を何度も叫び、顔に張り付いた髪を乱暴に直しながら家の中に入った。
小さな小屋とも呼べるようなこの家には、キヨという女が住んでいる。いつからこの集落に住みだしたのかは誰も知らない。年の頃は二十代前半ぐらいだろうか。小柄で愛嬌のある顔をしたキヨは、ふらりとこの集落へ来て、いつの間にか誰も使っていなかったこの小屋に住み着いたのだ。余所者に対し警戒心の強い田舎の集落。素性の分からない者など即追い出すかと思いきや、追い出すどころか逆にキヨを歓迎した。何故ならキヨは医者だったからだ。かつてこの村にも医者はいた。しかしある事がきっかけで姿を消してしまったのだ。それ故、医者に診てもらうには北にそびえる双子山を越えて行かないといけなかった。それ程険しい山ではないとはいえ、病人の山越えは地獄と言ってもいい。医者に診てもらう前に山で死んだ者も多くいたという。そんな事情から医者であれば、キヨが何処のどういった人物なのかなど、集落の人達は問題視しなかったのだ。
キヨ自身もとても穏やかな心優しい人間だったという事もある。仕事以外の時は畑を手伝ったり子守をかって出たりと細々と集落の人達を助けていた。
しかしある日を境に、キヨは夜な夜なお地蔵様を作るようになった。昼間は集落の人達の手伝いをし、夜は地蔵を作る。毎日毎日、ノミで石を掘る音が夜の集落に響いていた。
ソレを知った集落の人々はなぜそんなに沢山のお地蔵様を作るのかキヨに聞いた。
「お地蔵様は慈悲深いお人け。沢山作って守ってもらうけ」
そう言って作り続けた。
昨日も夜遅くまで地蔵を掘り続け、明け方になり倒れるようにして布団に入りウトウトしかけた所で女が家に飛び込んできたのだ。
「キヨさん!早く来てくれっけ!早く!早く!」
女は息せき切りながら、キヨが寝ている場所まで這って来た。
「ああ。分かった分かった。ちょいとあんた。草履も脱がないで・・畳がびしょ濡れけ」
「そんなもん後で掃除するから早く!」
そう言うが早いが女は、布団の上に座るキヨの腕を掴み強く引いた。
細身な女の身体にどこにこんな力があるのかと思う程強く引かれたキヨの身体は、あっという間に女の背中の上にいた。
「待ってくれっけ。傘を・・・」
「この大雨じゃ、傘なんて役に立たんけ」
そう言うと女はキヨを背負ったまま矢のように家を飛び出すと、元来た道を走って行った。
想像以上に激しく降る雨は、女の背中に顔をうずめているキヨの身体に容赦なく打ちつける。しかしキヨは、雨の冷たさよりもこれから待ち受けるお産に恐れにも似た不安を感じていた。
「また双子なんじゃろうか」
ぼそりと呟いた言葉は、誰に聞かれる事もなく激しい雨の音にかき消されていった。
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