別れ鳥の季節

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 リコは午後の休憩を終えると、キッチンのシンクで良く手を洗ってから、冷蔵庫の野菜室を開けた。午後の四時。彼女はいつも四時から二時間ほどかけて、夕食の準備を整える。献立はすでに決まっているので、調理の手順についても完全にシミュレーション済だった。一人分の食事を品数多く作るのはそれなりに大変である。それでもリコは常備菜を作るのは好まず、一食で食べきれる量をちまちまと作っていくのだった。その作業を面倒だとは思わなかった。それが彼女の「仕事」だ。  副菜を作り、主菜の下拵えをし、一人用の土鍋で米を炊き、みそ汁を作り、最後に主菜を仕上げる。  食事を作り、食卓に配膳を済ませると、リコは圭司の部屋をノックした。 「お夕食が出来ました」 「ああ」  間もなくドアが開き、部屋の主が顔を出す。榊原圭司。28歳男性。180センチの長身と長髪、白く透けるような肌が目を引く。面長の顔に、表情は浮かんでいない。  圭司はリコに小さく頷いて見せると、食卓に向かった。 「いただきます」  席についた圭司は箸を手に取ると、黙々と料理を口に運んだ。  リコは圭司に向かい合って座ると、その様子を黙って見守る。 「今日は何をしてた?」  食事が半分ほど進んだ頃、圭司が呟くように口を開いた。独り言のような問い掛けであったが、リコにはそれが自らに向けられた問であることが分かっていた。 「今日は朝起きてまず窓を開けました。それから朝食の準備をし、朝食後の洗い物、洗濯、部屋の掃除を済ませました。それからスーパーへ買い物に出かけました。帰宅後、昼食の準備をし、その片づけの後、休憩をいただきました。休憩の後、夕食の準備をし、今に至ります」  リコは毎日判で押したような毎日を送っている。そのことは圭司も百も承知のはずだが、リコの報告を受けると彼は一瞬、満足そうな表情を浮かべた。 「変わったことはあったか?」 「そうですね……」  リコは一日を思い返しているかのように間を置いた。 「今日は一日中、良く晴れた秋らしい陽気でした。空は、青いというよりも白っぽい色で、高いところにイワシ雲がかかっておりました。街路樹が薄く黄色に色づいていまして、ああ、もう秋なんだなと思いました」  リコは述べる。 「そうか、秋か」  圭司はふと顔をあげ、窓の方を見た。窓にはすでにカーテンがかかっており、外は見えない。 「カーテンを開けましょうか?」 「いや、いい」 「では並木通りのライブカメラの中継でも……」 「いや、いいよ。もう日が落ちているだろう?」 「本日の日の入りは17時25分です」 「別にそこまで街路樹に興味があるわけじゃない」 「そうですか」 「それよりも、一つ提案があるのだが」 「提案、ですか?」  圭司の食事はほとんど終わっていた。リコはまっすぐに圭司の顔を見つめた。彼から何かを提案されるなどということは、今までほとんどなかった。一年ほど前に初めて彼の元を訪れたときに、自室の掃除は自分でするから決して入らないでほしいと頼まれたことぐらいではないか。 「なんでしょうか?」 「いや、大したことじゃないんだ……」  どうも歯切れの悪い口調にリコは首を傾げた。 「圭司さん?」 「リコさんがもしよければなんだが、一緒にドライブにでも行かないか?」  思わぬ提案に、リコは一瞬、フリーズした。処理能力が追い付かない。その会話はこの一年、圭司との間で積み重ねてきた会話のパターンとは大きく逸脱していた。そのことに気が付くとすぐに、リコは改めて圭司の様子を観察した。  彼はいつも通り、この世には何も面白いものなどないとでも言うような、無表情と無愛想の中間のような顔をして、食卓のいつもの椅子の上に腰かけている。それでもよくよく観察すると僅かに肩のあたりが緊張しているように見えた。 「……圭司さん、免許は?」 「オンライン講習で取得した。もちろん自動運転車限定だが」 「知りませんでした。いつの間に」 「自動運転車免許くらいないと、どこも雇ってくれないからな……」 「圭司さん?」 「俺もいつまでも引きこもっているわけにもいかないだろう?」  圭司は口角をあげた。自笑的な、ぎこちない笑顔。リコは驚きの表情を浮かべていた。 「そんな顔しなくてもいいだろう?」  リコは慌てて表情を微調整した。それでも内心の驚きまでは隠せない。何せ圭司はひきこもりであるからだ。  大学卒業後就職した会社がどうにも肌に合わず、半年ほどで退職して実家の子供部屋に引きこもった。始めは心配していた両親も、やがては愛想をつかし一年ほど前に無理やり彼を部屋から出し一人暮らしをさせた。圭司を追い出した両親だが、しかし一人息子は可愛いらしく、家事手伝いとしてリコを雇った。両親の借りた小さなアパートの一室でも、彼は自室の中に引きこもって生活している。食事とトイレと風呂の時しか自室からは出てこない。アパートの外にはこの一年、一歩も出ていない。自室の中で何をしているのか。リコは一度も詮索しなかったが、気にならなかったといえば嘘になる。  まさか免許を取得していたとは。それも就職を見据えて。  リコは彼の両親と結んだ契約内容を思い出した。  圭司がまっとうな生活を送れるように毎日の家事をお願いしたい。  彼が再び社会に向き合い、部屋から出られるように支援して欲しい。  一つ目の契約内容、家事についてはほぼ完璧にこなしてきた。しかし二つ目についてはなかなか進展が見られず、彼女は月に一度の上司との面談で進捗報告をする度にいたたまれない気持ちになるのだった。もっとも上司は、圭司のひきこもりが長引けば長引くほど契約期間が伸びるのだから、別に気にする必要はないとリコに言うのだが。 「ドライブ、ですか」  リコはもちろん家事をするために圭司の部屋に派遣されている。しかし圭司が外に出るためのサポートであるならば、家事以外のことをすることも許される。 「喜んで」  リコは答えた。わずかに見えていた圭司の緊張がすっと消えた。 「明日は……土曜日か。どうせなら平日にしよう。月曜日か火曜日でどうだろう?」 「そうですね、火曜日の方が天気は良いようです」 「では火曜日に。レンタカーを予約するよ」 「それでは私は、当日、お弁当を用意しますね。サンドイッチはいかがでしょうか?」 「いや、お弁当はいいよ。そんなに大層なことをしたいわけじゃないんだ。ただちょっと外の空気を吸いたくなった。君はただ、一緒にいてくれればいい」 「分かりました。では、楽しみにしていますね。あ、お茶入れますね」  あんまり期待しないでくれよ、という声を背中に聞きながら、リコはキッチンに向かった。急須にお湯を注ぎながらも、自分の頬が自然と緩むのを感じていた。  夕食後のシャワーの後、圭司は再び部屋に引きこもってしまった。リコは夕食の洗い物の後、キッチン周りの掃除を済ませると、リビングの片隅に置いてあるボットへ向かった。細長い卵状のそれは薄い青色で、秋の空の色にも似ていた。正面にある扉を開けて、ボットに入り込む。ボットの中は大きなクッションになっており、リコは手早く服を脱ぐと寄りかかるようにしてクッションに体を預けた。彼女を認識したボットが、彼女に給電を始める。それと同時に頭上から降りてきたヘッドギアが自動で彼女の頭に装着される。  リコはアンドロイドだった。  生物素材を利用した精巧なつくりの人型アンドロイドである。汎用品ではあるが多少のバリエーションが与えられており、見た目だけで彼女をロボットだと認識できる人間はいないだろう。  彼女は家事補助用に開発された機体であり、生れたときから完璧に家事をこなすことが出来た。しかも最新の言語処理プログラムと、メンタルケア用共感モジュールを搭載している。ひきこもりの人間の世話には必要十分な性能を有している。ひきこもりの人間に対し、腹を立てることもなければ、繰り返される変化のない毎日に倦むこともない。それでも人間の、生身の家政婦を雇うのに比べたら、家事用アンドロイドのレンタルはずっと安くつく。  彼女はゆっくりと息を吐くと目を閉じた。  ヘッドセットを通して、彼女はインターネットの大海へと接続される。  まずは今日の出来事、特に夕食の時間の圭司とのやりとりをレポートにまとめて、上司へと送信した。きっと今日の変化は彼を通して、圭司の両親へと伝わるだろう。六年間引きこもっていた息子が、免許を取得し、外に出ようとしているのだ。きっと両親は喜ぶだろう。上司はがっかりするかもしれないが、就活サポートを売りつけるチャンスと見るかもしれない。  それから彼女は「男女 ドライブ 主人と雇人」といったキーワードで検索をかけた。古今東西あらゆるフィクションやノンフィクションのデータが彼女の中を通り過ぎる。それらのデータを解析するなかで一つの単語が浮かびあがった。 「デート、なんて、そんなこと」  リコは自分に共感性モジュール、人間の感情を再現するための機関が備わっていることを喜んでいいのか、恨めばよいのか分からず、生成された自らの感情を持て余し途方にくれた。
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