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「森山くんと草野くん、ちょっといいかな」
もう慣れた。
教授が全体を引き締めるために僕たち院生二人を見せしめに叱る常用パターンだ。
思い返せばこれは二年前、僕たちがまだゼミ生だった頃から始まった。
大学入学後1-3回生の勉学を終え4回生になると、それぞれが学内のどこかの研究室に所属し、教授陣、大学院生からの指導を受ける。大学4回生はゼミ生と呼ばれている。
中でも僕の所属するS研は、教授1人、助教授1人、講師2人、大学院生6人(ドクター2人、マスター4人)の大所帯な研究室で、実験の充実度、アカデミックなコネクションも豊富で学生からの人気も高い。よって、S研に入れるのは、精鋭のみと噂されていた。
そんなS研に入るため僕は相当努力した。研究者になる子どもの頃からの夢を叶えるために。
小学生の時、僕のあだ名はジョンだった。平凡すぎる顔立ち、大柄でぼさっとしている様が、校門の前の家で飼われていた犬の“ジョン”にどことなく似ている、というのがきっかけだった。学校の行き帰りの子ども達からからかわれ、迷惑そうにしていたジョンはミニチュアシュナウザーがミックスされた雑種だったか。周りに誰もいない時、僕は、
「なんか、ごめんな。周りは勝手だよね、僕たちの気持ちも知らないでさ。」
と喋りかけていた。ジョンはキョトンとこちらを向いていたけれど、なぜか同志と思うようになった。
そんなある日の帰り道、ジョンの家の前に人だかりが出来ていた。小学生達は、
「大丈夫かなー。」
「もうおじいちゃんらしいよね。」
「じゃあ、これが老衰ってやつ?」
等と口々に言っていた。つま先立ちをして見ると芝生の庭でジョンは寝そべり、尻尾もだらりと垂れ下がったまま、舌を出してはあはあと苦しそうにしている。どうしたらいい?
そうだ、おばさん!僕は玄関側に走り、チャイムを押した。
「ああ、ああ、あの、ジョンが、あの、犬の方のジョンが、ぐったりと苦しそうです。あの、6年1組の草野と申します。」
こんな時にも、どもってしまう自分が嫌だ。
おばさんはすぐさまジョンを車に乗せて行った。主のいなくなった庭に僕一人が残った。
きっとジョンはおばさんが病院に連れて行ってくれて、助かったはず。ジョンの犬齢を僕は知らないけど、老衰なんかじゃない、きっと元気になって戻ってくる!ジョンの犬小屋に手を合わせて、無事を祈った。
少しして、僕たちは小学校を卒業した。ジョンの様子を見に行ったけど、犬小屋はもぬけの殻で、ジョンの安否がわからないまま時が過ぎた。
小学校を卒業したらすぐに忙しい生活が待ち構えていた。母が申し込んだ塾の春期講習に始まり、気がつくと中学の一学期ももう半ばだった。小学生時代は運動が苦手でぱっとしなかったけれど、中学では成績がいいとからかわれることもなくなり、それなりに充実していた。
そんなある日、完成した卒業アルバムの受け渡しのため小学校を訪れた。元担任から、ジョンの家のおばさんが僕へのお礼を伝えられた。ジョンの異変を知らせたころで大事に至らずに済んだらしい。ジョンと聞いて、忘れかけていたあの日の記憶が蘇り、胸がドキリとしたが、ジョンは無事だった。本当によかった。アルバムを持つ手に力が入る。
「ありがとうございます。ジョンが、無事で。本当に、よかった。」
でもなぜ僕の名前を、と聞きかけて思い出した。あの時、無駄に自分のクラスと名前を口走っていた。
学校を後にすると僕はジョンの元に急いだ。庭のジョンは愛用のボールをかじっていて元気そうだ。よかった、ジョン。しばらくジョンを見ていると、家の中からおばさんが出てきた。
「あの、ぼ、草野と申します。」
「あの時の、草野くん!あの時は本当にありがとうねー。」
僕はおばさんからジョンのあの日の経緯を聞いた。何か異物を食べてしまったことが原因で、高熱が出ていたが、連れて行った病院での注射が効いて、数日ほどで元通りになったそうだ。異物についておばさんに聞いても、思い当たることがないらしい。
そういえば、辺りの草をフェンスの中に入れていた子を見かけたことがある。僕は何の行動も起こせなかったが、もしかしたら、ああいう軽率な行動が、ジョンを危険に晒したのかもしれないと、おばさんに伝えた。今回は本当に無事でよかった。それにしても、注射ってすごい。少しの量を体に入れただけで、得体の分からない異物までやっつけるなんて!そしてこんな僕でもジョンの平和に役立ったかもと思ったら、ちょっと誇らしい。
ジョンの一件があってから、僕は漠然と、薬や研究に興味を持つようになり、気合いを入れて勉強に励んだ。自分の第一希望であった今の大学に進学できた時は、自慢して歩きたい気分だった。田舎のぼーっとした少年だった僕が、大出世したぞって。夢だった研究者が、もう手の届きそうなところまで来たんだぞって。
地元から電車を乗り継ぎ、片道約2時間の大学に通った。おしゃれな街の代名詞にある大学に通っても、外見も性格も地味なままだし、彼女もいない。似たような男子との淡泊なつきあいが僕にはベストだった。
そんな僕の毎日が変わったのは、ゼミに入ってからだ。
研究室のゼミ生は8人で、男は僕と森山くん、そして女子の6人。基本的にみんな研究熱心だが、実はノリのいい子が多く最初から気が合った。風谷さんと秋月さんが思いついた面白い渦にみんなが巻き込まれていく。地味で目立たない僕にもその矛先は向いた。
「待って、ジョンソンくんって、ヘルシーランチ!?」
「なんか意外だね。足りる?ご飯も小だし。」
僕は答えた。
「足りるわけないよ。本当は大盛りランチを頼んだんだけど、ヘルシーランチが出てきた。」
「えっ!それだめじゃん。言いに行こうよ。」
風谷さんは心配してくれたけど、これが僕の通常運転。
「別に大丈夫だから。」
「大丈夫って!足りないんだよね?」
風谷さんは引き下がらない。
「足りないけど、これが普通なんだ。」
「なにそれ?今までも頼んでない物が出てきてるの?」
秋月さんも食いついてきた。
「うん。」
「そんなことってある?」
「それでも言わないの?」
二人の声が大きいから、隣の隣にいる松本さんも久保さんも不思議そうに僕を見つめる。
「うん。言ったら余計に変な物に変わることもあるし。」
「なになに?例えば?」
秋月さんはいつも好奇心旺盛だ。
「例えば、ご飯小を大に変えてくださいって言ったら、サラダに。唐揚げ丼のご飯大盛りを頼むと、半ご飯に。」
僕が言い終えると、じっと見ていた森山くんが吹き出した。
「で、ジョンソンはそれを食べるの?」
「うん。」
また爆笑された。僕以外の7人が笑っている。でもこれは僕を馬鹿にしてるんじゃなくて、僕のことを少しずつ受け入れてくれるような気がしてちょっと嬉しかった。
「ところでさ、草野一平っていう名前なのに、なんでジョンソンなわけ?」
秋月さんは鋭い。
「私も気になってた!もしかしてハーフとか?」
控えめな松本さんまでも。
「一般的な日本人なのだけど。」
僕は、それから、小学生の頃のあだ名が「ジョン」だったこと、犬のジョンとの件がこの大学に入るきっかけになったこと、あだ名「ジョン」は中学生以来封印していたはずなのに、僕が友人にジョンとの経緯を話したことをきっかけにまた大学でも「ジョン」と呼ばれるようになったこと、そこから「ジョン」の変化形が生まれて、「ジョンくん」「ジョン吉」「ジャクソン」まで派生したが淘汰され、最近は「ジョンソン」に一本化されたことを話した。
僕が大学に入った頃、犬のジョンが亡くなったことも。みんなは、頷きながら僕の話を聞いていた。
「やっぱり面白いわーージョンソン!」
ばしっと肩を叩かれた。風谷さん、近所のおばちゃんかよ。
「時間、やばくない?」
しっかり者の久保さんの言葉にみんな焦った。
ここに来てからもう1時間が過ぎていて、食堂はまばらになっていた。慌てて食器を片付け、F棟の研究室に走った。
そんなある秋のこと、研究室からの帰り道、秋月さんと一緒になった。秋月さんの友達のE研の明石真優さんも含め三人で、駅までの暗い道を帰ることになった。明石さんと僕は軽く自己紹介をした。
「ところで、二人はどうやって仲良くなったの?」
僕の質問に、
「それはねー」
秋月さんがにやりと笑った。
「私たち、あかし、とあきづきでしょ。出席番号が前後で。」
「そうそう。」
明石さんの説明に秋月さんの相槌。
「実験は大抵同じ班になるし自然とね。」
「真優ちゃんと実験したら天国!手先起用だし、優しい癒やされるー!」
秋月さんらしい。
「そんなことないない。秋ちゃんこそ、いつも考察を考えてくれてる!」
二人の関係、なんかいいな。
「でさ、真優ちゃん、ジョンソンくんのあだ名の由来知ってる?」
秋月さんからのパスが来て、僕は例の話をした。
話を聞いている明石さんの顔が街頭に照らされて眩しくて、僕の心はぎゅっと苦しくなった。
あの夜から、F棟に入る瞬間、明石さんを探すようになった。明石さんのE研はF棟の1階だから運がいいと会える。滅多に行かない放射線実験棟で居合わせ、隣の台で一緒に実験したときは、検体には勿論、隣の明石さんに緊張して手が震えた。
僕にとっての一番は、明石さんになっていた。
僕は明石さんに生まれて初めて恋をした。
昼休みにはなぜかトランプまで持ち込まれ毎日8人で思いっきり笑ったし、時々遊び過ぎて、森山と僕が教授から叱られた。わがままな教授が羽目を外すゼミ旅行も、その打ち上げとしてゼミ生みんなで行った初めての釣りも全部楽しかった。
その一方で、僕の指導担当の女子大学院生、賀集先輩の厳しい指導。朝9時から夜はほぼ終電までのハードな研究に往復4時間の通学。うまく行かない実験。積もった疲労も相当な物だった。
でも、夢は諦めないと踏ん張った。
僕は、大学卒業後も同じ研究室に残った。
仲良かったゼミ生のうち、残ったのは僕と森山くん。
森山くんは今までの僕なら友達になっていないタイプだった。大学4回生までは彼女がいたし院に入ってからは元ゼミ生の多部さんと付き合っていたはずだが今は多分うまくいってない。でも、器用過ぎず頑固な面もあり、教授に正面からぶつかり、ふてくされている人間くさいところもあるので、僕は一緒にいられるんだと思う。深く知ることも悪くないと思う。
院に入ってから僕らは大学の近くにひとり暮らしを始め、よく二人で夕食を兼ねて飲みに行った。
ある冬の日、森山くんのマンションに、ゼミ仲間で集まった。就職組の松本さん、秋月さんがご馳走してくれたお惣菜を食べた後、自然と大学院1回生終盤の僕たちの就職の話題になった。
僕は、企業の研究室を、森山くんは、公務員を目指している。
「それなら、真優ちゃんと一緒だね。」
秋月さんから出たワードに僕の胸は跳ねた。明石さんは今もE研で研究をしている。大学院に残ると知ったときは天にも昇る気持ちだったが、挨拶するだけでもドキドキが止まらない僕はゼミ生の頃と何も変わっていない。でも恥ずかしそうに僕のことを「ジョンソンくんって呼んでいいのかな?」って訊いてくれた明石さんは破壊力抜群だった。
「森山くんのライバルになるかもね。公務員の専門枠って募集少ないでしょ?」
「やばい。明石さんって成績いいんよな。諦めてくれないかな。」
「それは無理だわー。真優ちゃん一回生の頃からずっと公務員って決めてたし、真優ちゃんのお父さんもそうだし。」
秋月さんと森山くんの話は続く。
「そういえばさ、森山くんの理想の結婚相手、真優ちゃんがぴったりなのよね。あんないい子今時いないわ。」
「なになに?」
やめてくれ、秋月さん!森山くんに勧めないでくれ。
「森山くんは、家庭的な女の子がいいのよね。真優ちゃんのご実家、お母様がお習字、華道、茶道の師範らしいけど、家庭的で優しくて上品で気遣いのお母さんって感じでさ。真優ちゃんもそっくりで明るくて前向き。最高。目立たないけどかわいいよね。」
森山くんには渡さない。君には多部さんがいるじゃないか。
「おお!いいな。俺のことどう思ってるかな?」
「ああ、やっぱりやめておく。真優ちゃんが勿体ない。軽い気持ちで近づいたら許さないよ!っていうか、多部さんはどうしたの?」
さすが秋月さん。
「それがクリスマスにさ。あげたのよ。ずっと一緒にいたいって、ネックレスを。」
森山くんの話の続きに息をのんだ。
「そしたらさ、なんでか分からないけど微妙な空気が流れて。泣かれて。で、ごめん、って返された。それ以来連絡なし。」
森山くん、辛そうだ。
「メールの返事もなくて。クリスマスの夜はそれまで楽しそうだったから、本当に理解できなくて。」
森山くんの話を聞いて、恋愛初心者の俺だけじゃなくみんなの頭にもハテナが浮かんだようだ。
「森山くんは多部さんのことどうなの?」
松本さんの質問に
「整理できてないけど、もう無理なんだろうな。諦めないといけないと思い始めた。」
そう森山くんは答えた。
「それは森山くん、混乱するよね。でも、だからといって真優ちゃんには近づかないでね。曖昧な状態ではもっての外。いい。」
秋月さんは再度釘を刺していた。
年度が明けて、僕たちは大学院2回生になった。
就職活動に合わせて購入したスーツに着替えて、研究室を後にしたところで、森山が追いかけてきた。
「ジョンソン、今日も面接?」
「うん。今日で7社目。面接まで行ってだめだった時は凹むけど、慣れてきたような気も、しなくもなくもない。」
僕のやせ我慢の自虐に、森山が僕の肩をぽんと叩いた。
「我慢しなくていいよ。辛かったら愚痴ってよ。ジョンソンのいいところ絶対分かってくれる会社あるから。諦めたらそこで試合終了だからな!」
「森山―。ありがとうな。」
「おう!行ってこい!」
ありがとう森山。いいやつだ。この頃から僕は、森山にもう「くん」をつけなくなっていた。
春が過ぎようとしていた頃、F棟に入ったところで明石さんに会った。
僕に笑いかけてくれた明石さんは珍しくスーツを着ている。
「今日って就活?」
「うん。今日はお昼から県の採用一次試験で。筆記だけなんだけど、緊張するー。」
「緊張するよね。でも、きっと明石さんなら普段通りの力を出したら合格だから。」
「そうかな。でもありがとう。」
「頑張ってね。」
「うん!」
朝一からの明石さんと会えて話せてほくほくしながら階段を上ると、そこに白衣に着替えた森山がいた。
「森山も受けるの?県の試験?」
「おう!よくわかったな。」
「さっき下で明石さんに会ったから、森山も一緒かなって。」
「そうそう明石さんと一緒一緒。会場まで一緒に行く約束した!」
そう言って、ピースする森山に、嫌な予感がした。
それから数ヶ月が過ぎ、夏真っ盛り。
僕たちの就活は難航していた。公務員試験の始まったばかりの森山と明石さんは当然の結果だが、半年以上活動している僕も、未だ内定なし。応募する企業や職種を少しずつ広げても、どうも面接がうまくいかない。気力も潰えてしまいそうだ。何しろ、落ちた会社の数がすごい。さらにこの大学のS研の院生という条件を考えればあり得ない連敗記録。
教授推薦すら不合格の僕は、これ以上どうするべきなのか。夢へのタイムリミットが僕を黒い沼へ誘う。
日差しが和らいだ晩夏、N市の最終面接を終えた森山と飲みに出かけた。久しぶりに、松本さんと秋月さんも合流し、既に就職した先輩の話に耳を傾ける会となった。
医療機関で働く松本さんは、仕事が楽しそうで羨ましかったし、僕の連敗記録に驚いた秋月さんは僕の苦労とメンタルをねぎらってくれた。明石さんもN市最終面接まで漕ぎ着けたらしい。募集人員は2名プラスアルファだったそうで、もしかしたら二人とも採用?どちらかなら絶対真優ちゃん!という話題に、僕の心は一層暗くなった。
僕は重い腰を上げて研究職以外への応募を決意し、程なくして内定を掴んだ。
試薬や原薬の製造輸入販売会社だった。直接僕が研究することはないが、研究している誰かの役には立つ、と決めた。
その頃にはもう秋で、森山と明石さんは揃ってN市の職員になることが決まった。蓋を開けてみれば2名プラスアルファは6名だったそうだ。同期が6人。楽しそうだ。
秋の厚くなった雲に遮られるように僕の心は曇っていた。せっかくの内定にも気持ちが晴れず人生最後になるであろう研究にも身が入らない。
ジョンの件の後、思えば僕は、中学生からずっと研究者を目指してここまで突っ走ってきた。13歳だった僕はもう23歳。僕の青春は消えてしまった。夢というおぼろげなものに奪われてしまったんだ。
叶わないと分かっていたら、あの会社に入るくらいなら、この大学に来なくてもよかった。この研究室で成果をあげなくてもよかった。毎日細胞の世話をせず、もっと遊んで青春を満喫すればよかった。
曇っていた心の中は、どんどん暗くなり、冷たい雨が降り出した。そしてその雨は、しばらく止まなかった。
仕事を始めて半年が過ぎ、秋月さんの結婚披露宴に招待され、かつてのゼミ生8人が集合した。僕は仕事が思ったよりも楽しく、いつの間にか心の雨は止んでいた。多部さんと森山は普通に接していたが、誰もが深くは詮索しなかった。
秋月さんの親友の明石さんも当然参加しているはずだが、見当たらない。披露宴の開式の挨拶の声に僕はハッとした。明石さんだ。淡いピンク色のワンピースにふんわりとしたヘアスタイル。かなりかわいい。一生懸命司会を務める明石さんを応援し、その傍らの男性司会者をちょっと睨み付けてしまった。聞くと、男性司会者は新郎友人らしい。二人は息の合った様子だし、この披露宴をきっかけに、なんてことがあるかもしれない。秋月さんは余計なことを。でも明石さんとの再会を感謝しなければ。僕の思考はいつになくお喋りだ。
乾杯後の歓談。明石さんに声をかけに行こうかと迷っていると、隣の森山が立ち上がった。明石さんのことを真優ちゃんと呼んでいる。いい雰囲気じゃないか。悔しい。まだ早秋というのにまたあの厚い雲が心にやって来そうになるが、今日はおめでたい日だと振り払った。
秋月さんの結婚式から一年後の秋、森山と明石さんは結婚した。
さらに一年後の秋、僕は、会社の先輩、三田菜々さんと結婚した。
菜々さんは、短大卒入社かつ3歳年上なので、会社では大先輩だったが、僕を尊敬してくれているし、一平さんと呼んでくれている。脱ぎっぱなしの靴下は叱られるし、僕も菜々さんが夜中まで漫画を読む日はムッとしてしまうけれど、穏やかな暮らし。未だにスタミナ定食を注文しても、エコノミー定食が出てきて、相変わらず受け入れてしまう僕だが、それもまたいいのかも知れない。子どもの頃思い描いた通りではないが、今の環境は自分にぴったりだったと思う。家庭も仕事も。
原薬を輸入し、商品を右から左へと受け渡す仕事の中で、少数派の理系である僕の知識は役に立つことも多かった。原薬の供給が滞れば新薬の開発も、治療薬の製造も滞る。そうならないように僕たちがいる。
等身大の僕の、僕たちの僕たちらしい毎日。
胸は苦しくならないし、冷たい雨も降らないここに、青春はない。
間違いなく僕の青春はあの研究室で過ごした甘く苦い三年間だったと今は思える。あの日々があるから今の僕に辿り着いた。
盗まれたと思ったものは、盗んだ犯人の中にこそ、存在した。
数年前に買ってリフォームした僕たちの小さな城。最近僕たち二人の新しい家族になった、小さな庭で遊ぶ愛犬チョビの散歩に、そろそろ行きますか。
もっと広い公園に、走りに行こう。
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