化粧品

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 アイリの登校前は忙しい。鏡の前でにらめっこをして、自分の顔を少しでも可愛くしようと手を施す。  彼女の通う高校は校則が緩く、制服の着方はもちろん、少しぐらい化粧をしても何も言われない。むしろ、その緩さを売りとしているような高校だった。  寝足りないせいで頭はぼーっとしているが、アイリは手を抜かない。この朝の数十分が今の自分の生活のすべてだ、言わんばかりの集中力だ。これがしたくて、わざわざこの高校に入ったのだから。 「あれ?」  アイリは最近いつも使っているマスカラがない事に気付いた。 「またか!」  そう言うと、アイリは自分の部屋を飛び出した。 「お兄ちゃん!」  アイリは部屋をノックせずに扉を開けた。中ではリョウが制服姿で立っている。 「お、どうした?」 「どうした、じゃないでしょ。私のマスカラ返してよ」 「ああ、使うのか」  リョウは棚の上に置いてあるマスカラを手に取った。 「なんでいつも勝手に持ってくのよ。使わないんでしょ」 「ああ。この形が良くてな。見ていて飽きないんだ」  そう言うと、リョウは手に持ったマスカラを、手を動かして角度を変えながら眺めた。 「形なんて、どれもそんなに変わんないでしょ」 「違うんだよ、微妙に」 「いいからもう、早く返して!時間ないんだから」  アイリはひったくる様にマスカラを取り、自分の部屋へ戻って行った。少ししてリョウが部屋を出て階段を下りて行く音が聞こえた。。リョウはアイリよりも遠くの学校に通っている。都内でも有数の進学校だ。  アイリとリョウは年子だ。リョウは高校三年でアイリは二年。二人は性別だけでなく、全てにおいて対照的だった。  リョウは小さい頃から秀才だった。それだけでなく容姿も整っていて、いつでも女子から人気があった。性格も穏やかで優しい。  一方のアイリはとにかく勉強が苦手だ。活発だがいつもせわしなく、声も大きい。そして、アイリが兄と比べて特に気にしていたのは、その容姿だった。  アイリは別に容姿が悪いという訳では無いが、いかんせん兄が良すぎた。アイリの顔は全てのパーツがやや大きかった。 「アイリは目が大きくて羨ましい」  友人などによくそう言われたが、彼女は素直に喜べなかった。顔全体のバランスに対して大きくないと意味がない、そう思っていた。  アイリは兄が大好きだ。その兄に少しでも近づくために彼女が選んだのは化粧だった。いつも兄妹で並んで人と会ったときに感じるささやかな劣等感、それはきっとこれからも消えることはないだろう。だけど抵抗はしたかった。  そんな兄はなぜか最近よく妹の化粧品を自分の部屋に持って行った。本人がいない時に勝手にアイリの部屋に入って化粧品をくすねる。そうして自分の部屋に飾っておく。  しかし中身を使う事は決してなかった。化粧そのものに興味がないのは明らかだった。  アイリはその理由を何度も尋ねたが、答えはいつも「化粧品のデザインが好き」というものだった。男だから自分で買う事は出来ない、アイリの部屋から持って行く理由をそう答えた。  しかしそんな言い訳はアイリには全く腑に落ちなかった。恐らくそんな若い時から化粧なんかするな、という説教じみた理由からだろうとアイリは勝手に解釈した。 「私の気も知らないで」  アイリはそう思うと、余計に腹が立つのだった。  その日の午後、アイリは学校から帰って来た。もう暑い季節は過ぎ去り、自転車で切る風も冷たく感じる。 「ただいまー」 「おかえりなさい」  リビングでは母親のリカコがリビングでテレビを見ていた。テーブルに置いてあるビスケットが美味しそうだったので、アイリは着替えもせずにそのままソファに腰を下ろした。 「ちょっと、手を洗いなさい」 「いいじゃん、べつに」  そう言うと、アイリはビスケットを一つつまんで口の中に入れた。リカコはアイリの顔をじっと見つめて、 「濃いわねえ、化粧」 「そんな事ないよ、ふつう」 「濃いって」 「ふつうだって。クラスの子達もみんなこれくらい」 「ほんと?」 「みんなに比べたら、むしろ薄いぐらい」 「それはないでしょ」 「まあ、それはないか」  そう言って、アイリは笑った。リカコは苦笑している。 「本当に大丈夫なの?そんな若いうちから」 「大丈夫だよ。毎日ちゃんと洗顔してるから」 「年取ったら大変だよ」 「そんなこと言って、お母さんだって知らないでしょ?私の年の頃は化粧してなかったんでしょ」 「田舎だったからねえ」 「ド田舎だよね」 「そうそう」  二人は笑った。テレビはサスペンスドラマを流している。どうやらクライマックスが近いようだった。アイリは内容はわからなかったが母につられて、二人はしばしテレビに見入った。  ドラマが終わり、アイリは再び話し始めた。 「お兄ちゃん、また私の化粧品持って行ったの!」 「ふうん。また?」 「そう、マスカラ。ほんと、なんなんだろう?やめてって何度も言ってるのに」 「でも、使ってはいないんでしょ?」 「使ってたら大変だよ」  アイリは笑う。リカコはアイリに微笑みながら、 「きっと、さみしいんじゃない?」  アイリは驚いて、 「は?なにが?」 「あら、聞いてないの?リョウ、大学は北海道の大学を受験するみたいよ」 「えっ、北海道?」  アイリは初耳だった。てっきり都内の大学を受験すると思っていた。時間が止まるような感覚になった。 「そう。なんか農業の勉強をしたいみたい。リョウに確かめたら決意は固かったよ。私も急に言われたから、びっくり。正直結婚するまでこの家にいると思ってた」  リカコは笑った。リカコはもう覚悟が決まっているようで、乾いた笑顔を見せた。  アイリは頭の中が真っ白になった。農業に興味があるなんて、そんな話は聞いたことなかった。  いつもそうだ。兄は自分の事をほとんど話さない。アイリはリョウに彼女がいるかどうかも知らないし、聞いても笑って答えなかった。とても近くにいるのに、どこか遠い存在だった。 「お母さんはいつ知ったの?その事」 「いや、最近。三者面談の時はそんなこと言ってなかったのに、急に。元々勉強は出来るからね、まあ問題はないと思うけど。担任の先生もびっくりしてたよ」 「そうなんだ…」 「おどろいた?」 「うん」 「さびしい?」  アイリは答えなかった。しかし、その表情が全てを物語っていた。 「まあ、でもうちは兄妹仲いいほうよね」  リカコは慰めるように言った。アイリは答えない。 「この前リョウがね、アイリに感謝してたわよ」 「感謝?なにが?」  アイリは顔を上げた。 「あの子が小学生のころ、一度学校に行けない時期があったでしょ」  リョウは一時期、不登校だった。理由を聞いても自分でも分からないようで、それが一層彼を苦しませた。 「あの時、アイリは変わらず自分と接してくれた。あの明るさに助けられたって」  初めて聞いた。その当時、アイリは何も考えていなかった。兄の不登校はただ単に体調が悪いとしか考えていなかった。治りにくい強い病気にかかっているだけ、そんな意識だった。それは、両親がそう思わせるようにアイリに説明したからでもあった。 「リョウは勝手にアイリの部屋に入って行くんでしょ?」  アイリはうなずいた。 「それは嫌じゃないの?」  アイリは首を振った。 「アイリも、リョウの部屋にノックもしないで入っていくよね」  アイリは再びうなずく。 「それって、いい関係じゃない?わたしは羨ましいよ」  そう言ってリカコは笑った。アイリは何度も涙をぬぐったので、目の周りが黒くなってしまい、リカコにさらに笑われた。  次の日の朝。リョウが学校に行こうと部屋を出ると、隣の部屋からアイリも出て来た。 「おう、今日は早いな」 「…お兄ちゃん、北海道の大学に受験するの?」 「ああ」 「なんで言ってくれないの?」 「お前に言ったら、泣き出すだろ」  そう言ってリョウは笑って、それからまっすぐアイリを見つめて、階段を下りて行った。  兄妹が一緒に暮らせるのはあと半年。アイリはドアの空いたリョウの部屋をしばらく見つめて、続いて階段を下りた。涙はこらえて、メイクがくずれないように。 完
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