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ぼんやりと、瞑っていた目を開け、ゆっくりと体を起こす。
「さて、と」
Tシャツと半ズボンというラフな服装に、青いパーカーを一枚羽織り、スマホにイヤホンを差し込み今夜は何を聴こうかと思考しつつ、祖父母を起こさぬよう忍び足で、東京の自宅よりはるかに広くはるかに古い玄関を出た。
引き戸をゆっくりと閉め、外の空気を思い切り吸い込む。
色も形も成さない香りであるくせにどうして人の記憶に刻み込まれるのだろうか。
都会生活では味わえない草の香りや、木々のざわめき、土や砂利を踏んだ時の何とも言えない音、夜風が髪の間を通り抜けていき思わず笑みがこぼれる。
懐かしくて、落ち着く香りは柔らかに遥祐を励ましてくれた。
時刻は零時過ぎ。
向かうは、遥祐が毎年、帰省時に利用する簡素なバス停。
勿論こんな真夜中にバスなど停まらない。
バスばかりではなく、街頭一つないこの村にはもう人っ子一人いやしない。
ただ唯一、こんな夜中でも光があるのが、この村で一つしかない遥祐の目的地であるそのバス停なのである。
そのおかげで夜光虫は嫌という程群がるが、心を落ち着けたいときには設置されたベンチに座ってぼんやりと田舎の星空を見上げるのが遥祐の毎年の楽しみの一つだった。
申し訳程度に雨避けがあるだけの、たった一つのベンチの定員は恐らく三人だろう。
中学生の時、帰省中に一つ下の妹と喧嘩をして真夜中、どうにもむしゃくしゃして眠れなかった夜に見つけた遥祐の特等席。
ここは木の葉も開けているからよく空が見えるのだ。
東京では見られないはっきりとした光を放つ星々。
靴が地面を踏む音を聴きながらバス停の薄ぼんやりした明かりを目指す。
歩いている時に音楽を再生しないのが遥祐の真夜中の散歩のルール。
歩く音、昔は煩いと思っていた虫の声、葉のこすれる音、風の音、土の匂い、木の匂い、それらを五感で感じながら歩くのが好きだった。
家から歩いて三十分程経った頃、ようやく白熱灯の淡く薄黄色い光が見えてきた。
初めのころはふくらはぎが少し張っていたこの距離も今は慣れっこだ。
じんわりとかく汗も悪くはない。
やっと着いた、と息を吐いて囲いの中のベンチを覗いた、その時だった。
「あ」
たった一つしかないベンチ、しかも真夜中零時半過ぎのこの時間に、ベンチには誰かが寝そべっていた。
都会の駅のホームではよく見る光景だが、ここはお世辞すらも言えないようなド田舎である。
五年間夏休みのたびにここを訪れていてこんな時間に人に会った事なんか一度もなかった。
むしろ夜はよく分からん獣が出るから、と外出を禁じられていたくらいだった。
現に今目の前にいるこの人間と自分しか人はいない。
遥祐は足音を立てぬように恐る恐るベンチに近づいてしゃがみ込んだ。
ゆっくり静かに右耳を人間に寄せ、呼吸音を確かめる。
「……生きてる」
思わずつぶやいてしまい慌てて、手で口を押えた。
どうやら人間は起きていないようだ。
ホッと胸をなでおろしつつ再び人間と向き合う。
男性……だろうか。
暗い髪色は柔い白熱灯にさらされて栗色に見えた。固く目を瞑っているおかげでまつ毛が長いことも分かる。
肌の色はどうだろうか、黒過ぎず白過ぎず健康色だろう。
ぐっすりと眠っているらしい男の緩んだ口元からは涎が垂れていた。
すぅすぅ、と寝息を立てる度に微かに口元からアルコール臭がする。
なんだ、酔っ払いか、と遥祐はため息を吐いた。
酔っ払いに夏の特等席を取られるとは思わなかったな。
ベンチから手も足も投げ出されている様を見ると、自分の座る隙間はどこにもないようだ。
しかしまだ帰る気分ではなかった。
いつもこのベンチで音楽を流しつつ一時間ほどぼんやり物思いに更けてから帰るので、まだ全然満足をしていない。
座れなくてもいいから別の場所でも探そうかと再び立ち上がったその時、ポケットからスマホが落ちてしまった。
固い音が静かな夜に響く。
慌てて拾い上げたが衝撃音を止めることはできなかった。
そして、それによって目を覚ましたらしい男の視線から逃れることもできなかった。
「……んん、だぁれ?」
のんびりした少しハスキーな声が聴こえる。
スマホについてしまった土を払いポケットにしまい男に向き合った。
「……あなたこそ。こんなとこで寝ていたら風邪ひきますよ」
思ってはいたが言うつもりのなかった台詞を吐き出し、やっぱり今日は帰ろうかと考え直していた時、男はまた言葉を発した。
「あれ?今何時?」
これは自分に問いかけられてるのだろうか。
いや疑うまでもない、自分に対してなのだろうな。
遥祐は面倒に思いつつも再び落としたばかりのスマホを取り出して電源を入れた。
「……零時五十八分ですね」
「えー!もうそんな時間なの!?だって俺、ここに着いたの最終バスを降りた時だから八時半くらいだよ」
知らん知らん。
「いっぱい寝ちゃったなぁ。あれ?そんで君は何しに来たの?もう最終バスはないよぉ。あとは始発の十時からのバスまで待つしかないよ。迷子?」
口数がやたら多い彼は遠慮なんて微塵も出さずに遥祐に話しかける。
遥祐は圧倒されつつもやっと「はあ」とだけ返した。
「いや、はあ、じゃなくて。ここで待っててもバス来ないって。キミ、外国人?」
馬鹿にしたような表情に遥祐はムッと顔を歪ませ、「違います」と否定した。
「別にバス待ってるわけじゃなくて、ここに座りに来たんです」
強い口調で返すと男は髭面をキョトンとさせて「家出少年?」と首を傾げた。
「違うっつーの」
「家出以外でこんな真夜中に外を徘徊?認知症じゃあるまいし。ここでは日常茶飯事だけどねぇ。町内放送みたいなやつがないから昼間ならみんなで叫んで探すんだよ。棒とか持って森掻き分けてさ。キミ、シティーボーイ?田舎育ちにはみえないなぁ」
よくもまあ回る口だ。
次から次へと話題が変わってゆく。
遥祐は内心辟易しながら男の言葉を聞いた。
「ね、結局君はだれ?」
男が首を動かして、髪がなびいた時キラリと星にも勝る緋色のピアスが一瞬だけ目に入った。
きっとたまたま月明かりが差し込んだのだろう。
やけに印象的だった。
「……夏休みの間だけこっち来てんの」
「あ~!帰省ってやつね!」
やけに明るいこの男は自分の正体は名乗らずに再び何かをペラペラ話始める。
「じゃあここ、空けたげるから座んなぁ」
男は遥祐から見て右側の席をご丁寧に空けてくれた。
遠慮なく男の横に腰を下ろし、背もたれに背を預け上を見上げた。
やっぱりここは空が綺麗だ。
天文学に精通しているわけではないし、さして興味があるわけでもない。
ただ単純に上を向くのが好きで、そこに星が輝いていたら嬉しいなと思っているだけだ。
夜空には月と星が似合うのだ。
藍色の布に宝石を散りばめたような空は酷く美しい。
「キミ、星が好きなの?」
キョトンとした顔で見てくる男は上なんて興味もないようにじっと遥祐の顔を見つめてくる。
「……別に」
「なぁんだよ、つれないなぁ。ちなみに俺は興味ない」
貴方の価値観こそ全くもって興味ないのですが。
「あ、ねぇ飴あるよ。舐める?」
いらないのですが。
「はい、右手がイチゴ味で左手がレモン味です!どっちが何味でしょ……ん?あれ?」
バカなのかこの人は。
答えを言ってしまってるではないか。
「待って!もっかいね!はい!今度は分からんよ~!どっちでしょおー!」
一人でやけに楽しそうにはしゃぐ大人を呆れた顔で見つつ、遥祐は適当に左手を選んだ。
「お、イチゴ味の方ね!でも俺がイチゴ食べたいからキミはレモンをお食べ」
「それじゃ選んだ意味ねぇじゃん」
「意味とかないない!だって俺がやりたかっただけだもーん」
なんだろうこのムカつく人間は。
人をおちょくりすぎではないのか……と思いはしたが、飴の味なんてどうでもよかったので黙って受けとることにした。
キャンディ包みになっており、白い紙にレモンのマークが小さくプリントされていた。
イチゴ味の包もまた同様だった。
見知らぬ男性と二人でゆったり並んで座って飴を舐める。
これまでの人生でこんな奇妙な経験があっただろうか。
「昔の人はさあ、星の光の事を、空に穴が開いていて、そこから天国の光がもれてるって考えてたんだって~」
唐突な話題転換には既に慣れた遥祐は、もしそれが事実だったとしたらなんて幻想的で美しい世界だっただろう、と呑気に考えた。
「天国が光輝いてるだなんて発想、綺麗だよね」
確かにそうかもしれない。
天国がいいところだと思えていた昔の人はさぞ幸せな最期を迎えたのだろうな。
「キミは信じてる?天国と地獄の存在」
「……悪いことしても良いことをしても、逝きつく先は結局土の中ッスよね」
遥祐は死後の世界だとか。幽霊の存在だとかそんなものは微塵も信じていない。
それは別に科学的根拠がないからだとかそんな小難しい話ではなく死んだらすべてリセットされるだけ、そう思っている。
「リアリストだねぇ、若いのに」
驚いた顔をする男。暫く黙り込んだ男のおかげでひぐらしの鳴き声がよく聞こえる。
「じゃあさ、もし本当に死後の世界があったらどうする?」
何故この人はこんなにも楽しそうに仮定の話ができるのだろう。
「……その世界って、法律とかあるんですかね」
出会ってから一番と言っていいほど目を丸くしたのち、男は腹を抱えてゲラゲラ笑いベンチから落ちていた。
……田舎って自由だなぁ、と遥祐は思いつつ空を見上げたのだった。
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