カミは盗ってつけた

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 太陽はまだ出ない。  街は眠りの中にあった。  臼井禿雄(うすいとくお)は明け方の路上を走る。  民家の間を白い息を吐きながら、帽子をかぶってランニングウェア姿でつき進む。  顔に当たる風が肌を刺すように冷たい。  新聞配達のスーパーカブが吹かすエンジンの音や、明け方の澄み切った空に浮かぶ星の瞬きには目もくれず、禿雄は一心不乱にアスファルトを蹴った。  汗が噴き出て、冷たい風が心地よく感じるようになった頃、禿雄はボロボロの鳥居の前で足を止める。  鳥居は紅いペンキがところどころ剥げ落ちて、石畳もひび割ればかり。  管理する人間がいないのか、『白上神社』と名前の彫られた石塔も風化しかかっている。  が、そんなことは禿雄にはなんの関係もない。  神社はご利益さえあればいいのだ。  街中の神社ならいざ知れず、街はずれの屋根瓦が落ちて壁に穴が開いているような神社にお参りに来る酔狂な人間はいない。  つまり競争相手はいない。  もし、願いを叶えるのに定員があるのならば禿雄の考えは正しかった。  故に、勝ったとつい先日まで禿雄は信じていた。 (今日は……よし、いない)  安堵の息を吐きながら砂ぼこりと枯葉だらけの石畳を歩く。  葉の枯れた樹木の枝が禿雄の頭上でうなずくように揺れていた。  あれはつい一週間ほど前のことだったか、それまで太陽が少し登った頃にゆったり神社に参っていた禿雄はランニングウェアを着込んだポニーテールの女性に話しかけられたのだ。 『いつもこの時間にお参りに来てますよね。すごいなぁ』  朝の陽ざしに輝く笑顔を向けられ、禿雄は心臓がばくばくと高鳴った。  いつも?  つまりいつも俺がこの神社に一番にお参りをしていると思っていたが違ったと言う事? この人が俺よりも先にお参りをしていた可能性が――。  それに気づいたその翌日から禿雄は雨の日だろうが雪だろうが、早朝3時に目を覚まし、4時に外に出るようになった。  全てはそう、この崩れかけている古いお社の神に願いを叶えてもらうためだ。  賽銭箱に5円玉を投げ入れて、ちぎれそうな鈴の緒を揺らして鳴らす。  ガランガラン……。  2回頭を下げて、手拍子を2回。  両手を合わせて願い事を……。 「おっと、帽子は脱いだ方がいいな。太陽出てないから気にしなくていいのは楽だ」  禿雄は帽子を取る。  その髪は薄く、今にも頭皮が見えてしまいそうだった。  太陽の光が当たれば光ってしまいそう。  気を取り直して両手を合わせてぎゅっと目をつぶる。 (神様……どうか髪をください。髪を。俺まだ26歳なんです。会社にこき使われてこんなになっちゃって……これじゃ合コンいけません。彼女が欲しいです……) 『白上神社』の御利益は家内安全、交通安全、健康成就、脂肪燃焼、発毛促進……。  北風が禿雄の薄い髪を撫ぜる。  禿雄は空が白み始めるまでじっと願い続けた。  雨の日も、風の日も、雪の日も、例え風邪を引こうが、発注ミスの責任を負わされようが、上司がムカつこうが、禿雄はお参りを休まなかった。  お百度参りというものがあると知り、100回は神社にお参りに行くと決めたからだ。  その間に年が開けた。  皆が街中のきれいな神社に参っている間も禿雄は白上神社に参拝した。  正月ムードが抜けて、徐々に梅の花の香りが漂い始めた頃だった。  会社は休みの日だった。  昨日上司に付き合って深夜まで飲み明かしたせいもあり、太陽が昇ってから起きてしまった。  それでもまだ6時30分。  あの古びた神社ならば誰も参拝になど来てはいまい。  それに、今日行けば100回目だとベッドから起き上がって背伸びをした禿雄は洗面所に向かった。  眠気眼をこすりながら、蛇口をひねる。  冷たい水を掌にためて顔にぶつけた。  二日酔いの脳がしびれる。  幾度かバシャバシャと顔に水をぶつけスッキリした禿雄はタオルで顔を拭く。  鏡の中の自分と目が合った。 「……は?」  禿雄は絶句した。  鏡の向こうの自分の頭が、そこにあったはずの限りある黒い草原がきれいさっぱりなくなっていたからだ。 「…………は??」  禿雄は、ハゲていた。  確かに前日まであった髪が。  頭を守る最後の砦が一晩にして荒野と化した。 (嘘だ、こんなの嘘だ……だって昨日まで。今日寝坊したからか? 神様め……)  もう、泣いていい。  その場に崩れ落ちて床を思いっきりぶん殴ってむせび泣いてもいい。  だが、禿雄は叫び出しそうな気持ちにそっと蓋をして、無心に、無表情になってランニングウェアに着替えた。  いつものように、いや、いつも以上に素早い動きで外に飛び出し、一直線に神社へ向かった。  途中道行く人が、若い女性から老女までが「おはようございます」「あら素敵な殿方」「きゃー!」「スポーツ選手みたい!」「かっこいいスキンヘッド!」と何か禿雄に言葉をかけていた気がするが、禿雄はここ三か月ほどのランニングで鍛え上げられ、軽くなった体を前に前にと動かした。  始めた頃の半分の時間で神社にたどり着いた禿雄は、梅の花の香る境内に滑り込み、人がいるかいないかも確認せずにボロ社の前に立った。  賽銭箱に5円玉を投げつけると、ちぎれかけの鈴の緒を揺らし、2礼2拍手なんてやってられず、心に ため込んだものを一気に放出する。 「髪返せぇええええええ! 髪泥棒が! 俺があんたを信じて何か月ここに通ったと思ってんだ! その結果がこれか! なにが発毛促進の神だばーか!!」  そこでとうとう崩れ落ちた禿雄は、しんと静まり返った境内の静けさに力なく笑った。  そう、答える神なんていない。  結局すべては禿雄が招いた結果だ。髪を生やす努力が足りなかったのだ。  ハゲを受け入れるしかない。 (もう、彼女なんていらないや……)  脚に力を入れて立ち上がった禿雄は、ボロボロのお社に向かって礼をする。 「お世話に……なりました」  もう来ることはないだろう。  背を向けると、後ろにポニーテールでランニングウェアの女性が禿雄に心配そうに見ていた。  あの時の女性だった。禿雄に3時起きを決意させた。 「あの……大丈夫ですか? なんかすごく叫んでいましたけど」 「ああ……大丈夫です。もう全部終わりましたから。参拝の邪魔してすみませんどうぞ」  妙にスッキリした気分だった。  髪と一緒に悪いものが全て抜けたみたいな、そんな気分。  禿雄の微笑みに、女性は頬を赤らめる。 「えっと、以前ここでお会いしましたよね? 覚えていますか?」  突然尋ねられて禿雄は目を白黒させた。 「そうですね、それが何か?」 「あれからお姿が見えなかったのでランニングを辞めてしまったのかと思っていたのですが」 「ああ、いえあれからも毎日続けてましたよ。ちょっと朝4時に時間を変更しただけで」  それも今日で終わりだ。 「更に早く? す、すごい……もしかしてその頭は努力の末に?」  女性は感心したように目を見開く 「いや、努力して禿にはならんでしょ」  言い返すが、女性はぶつぶつと独り言を呟きもじもじうつむいている。  なんなのだろうこの失礼な人は、早く家に帰ってシャワーを浴びてふて寝したい。  そうぼんやりと考えて頭上の枝に視線を向ける禿雄に、女性は意を決したように顔を上げた。 「あの、どうすれば継続することができるか教えてくれませんか? 私ダイエットしたいんですが続かなくって……ダメ、ですか?」  彼女は遠慮気味に上目遣いに尋ねてきた。 「……え? あ、は?」  禿雄は理解が追い付かなかった。何が目的だこの女? 禿でもうすぐ27歳の俺に何を求めて??  金魚のように口をパクパクさせる禿雄のどこをどうとってYESと受け取ったか、彼女はポニーテールを揺らして微笑んだ。 「スマホ持ってますよね? これ私の連絡先です! バーコード翳してください。あ、私三波由紀(みなみゆき)っていいます。臼井禿雄さんって言うんですね?」 「あ、え、ああ……」  勝手にスマホをいじられ、SNSの連絡先を交換させられる。 「じゃあ、連絡待ってますので。よろしくお願いします!」  朝日のまぶしさに負けない笑顔で石畳を駆け、ペンキの禿げた鳥居を抜けて行ってしまう由紀。その上機嫌な馬の尻尾のようなポニーテールが消えるまで見送って、禿雄は社を振り返った。 「神様……泥棒とか言ってすみませんでした」  深々と礼をする禿雄の頭をまだ冷たい風がつるりと吹き抜ける。  頭上の枝がうんうんと頷くように揺れていた。
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