運命とキス

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 大学一年生の秋頃から付き合い始めた彼女は、いつしか僕の部屋で過ごす日々を当然とし、気づいた時には僕の部屋で暮らすようになっていた。  付き合い始めの頃には些細な喧嘩もした。食器洗いの当番、ゴミの分別の仕方、タオル交換の頻度、脱いだジャケットをすぐにクローゼットに入れるかどうかなど、他人から見ればくだらない痴話喧嘩もたくさんあった。  喧嘩の数が多かった分、仲直りの方法は単純だった。面白いテレビ番組を見た時、大学の課題の手伝いをし合った時、美味しいスウィーツを買って帰った時。さまざまな事を共有しようとしていた僕達は、いちど分解した互いの存在を組み立て直すように抱き合い、互いの体温に溺れるようにして眠った。  世の恋人達みんながそうなのかは知らないが、付き合い始めのテンションというものは確かに存在していたようで、一年が経つ頃には喧嘩の数も減り、共有すべき事項を分別できるようになり、相手の最も柔らかな引き出しを探り合いながら抱き合えるようになっていた。僕はそれらを不満に思わなかったし、きっと彼女もそうだったはずだ。  大学二年生も終わろうとする三月、バイトに明け暮れていた春休み。バイトから帰宅してシャワーを浴び終えた後、珍しく彼女は僕に甘えを見せた。 「キスして」  ベッドに寄り掛かるようにして座っている僕に、彼女は両腕をまわして言った。激しく抱き合っていた頃にも聞いたことのない言葉に驚きながらも、僕は彼女の白い頬に触れ、リップ音とともにピンク色の唇にキスをした。彼女のグロスが少し剥げた。 「もっと」  細い腕が僕の首に絡まり、彼女との距離がぐんと近くなる。僕のあぐらに乗った彼女のおねだりは嫌いじゃない。周囲では倦怠期を心配するような声を聞く事もあるが、鼻先を触れ合わせながら覗く彼女の瞳の色で心臓がきゅっと締め付けられる僕には、関係のない話だった。長い間一緒に過ごしても変わらずときめきを胸に落とされる甘さと共に、彼女の唇をより深く味わった。  テレビ台に置かれたアナログ時計の音だけが響いた、静寂に満ちた部屋。繰り返すキスの途中、顔の角度を変えるたびに彼女の頭越しに見える光景は、彼女に出会う前とはずいぶんと変わっていた。  彼女のルームウェアである白いモコモコのパーカー、雑多にも見える彼女の化粧道具、ゲームセンターで捕ったキャラクターのぬいぐるみ、テーブルに置かれたお揃いのマグカップ。いつしかそれらが簡素だった僕の部屋を彩り、馴染んでいた。  華奢な彼女の手のひらに背中を撫でられ、脊髄反射のように僕の身体の芯に火がついた。付き合いたての頃であれば、このまま彼女の着ているルームウェアを剥ぎ取ってベッドに押し倒していただろうけれど、じりじりとした飢えを身体に浸み込ませながら彼女と舌を絡め合い続ける行為は、出口のない空間を浮遊するような心地よさを伴っていた。  その夜、彼女は僕の名前を何度も呼んだ。好きだよ、と何度もつぶやいた。そのたびに、僕もだよ、と想いを共有し、呼吸を分け合うようにキスをした。普段と違う彼女の様子さえも、飲み込むように。  満ちた多幸感にはわずかな違和感が存在していて、それを証明するかのように、彼女は姿を消した。  キスを繰り返して眠った翌日の朝、彼女はいつもようにバイトに出かけた。その朝に違っていたのは、時間経過と共におろそかになっていた、行ってきますのキスをされた事だった。 「どうしたの?」  玄関先で、ブローされた彼女の髪の毛に触れながら僕が苦笑すると、ブーツを履いた彼女は水分の多い瞳で僕をじっと見つめた後、行ってきます、と背伸びをしてもう一度僕の唇に口付けた。それが、最後のキスだった。
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