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1.羊が一匹
逃げ遅れた月明かりに、逃げ遅れた物語がひとつ。タップダンスの音が遠く聴こえてくる屋上に少女が一人。
――また、すっぽかされた。羊が672匹。
スリッパにクラスメイトの寄せ書きがある、幾つかの励ましの言葉に混じって「好きだ」とも書かれていた。油性マジックの言葉が消えるまで、その思いよそのままにあれと、看護士佐伯は胸に淡く過ぎ去った日々の泡を湧きたたせながら思った。
「僕はすっぽかしてなんかいませんよ」
佐伯が少女ではなく夜風に語るように、言葉を世界に放流する。受け止めるはずの耳が眠っているから、佐伯は孤独に少しでも抗っていたかった。
「女の子と待ち合わせの約束をして守らない男なんか、検尿カップでお茶飲めばいいんだ」
下品なジョークにも少女は顔をしかめない。
――今日も聴こえる、タップを踏む音。こんな深夜まで練習しているのかしら? うるさいって誰かに怒られなければいいけど。羊が722匹。
「タップダンス、か、僕はダンスは苦手なんだ。だから、こっそり今なら」
佐伯は踊ってみせる。踊ることは簡単だった。
「上手に踊ることは難しい、けれど僕はこう思うんだ。僕は下手なダンスを踊ることが上手だってね」
グル。
少女が屋上をペッタンペッタン一周して、去ってゆく。
佐伯は後ろ姿に上手な下手なダンスを送った。
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