十月十六日

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 久しぶりに店に立ち主役の子がまわったあとの客の相手をする。またあの子がまわってきますから私とお話しませんか、と時間を食いつないで注文を増やし、もっと金を落としてもらうのがセオリーだ。  昔の自分の客がいたらすぐに店を出るから、とママには伝えてある。余計な事には巻き込まれたくない。代わる代わる席を移動しお客の相手をしている時だった。誰かに連れてきてもらったらしい、いかにも夜の店に慣れていないという感じの客がいた。真面目なサラリーマンという風貌で金はあまりなさそうだ。年は四十台くらいだろうか。  同じテーブルに座っている男は逆に来慣れているようで女の子と楽しそうに盛り上がっている。ああいう奴の相手でいいか、一日だけのヘルプだし、と冴えない男を覗き込む形で話しかけた。 「こんばんは~、お隣、いいですか?」 「え、あ、ああ。どうぞ……」 「良かったあ、お邪魔しますぅ。カナです、よろしくお願いしまあす」  なるべく子供っぽく、少し馬鹿っぽい演技を入れて挨拶をすると予想通り、おどおどしている。店の売り上げを気にしなくていい立場なので気が楽だ、てきとうに話をするだけにしておこうと注文を取りながら当たり障りない話を振った。  男は大学の助教授で、今日は高名なセンセイとやらに連れてきてもらったらしい。連れてこられたというより断り切れなかったようだが。 「大学にこもって研究ばかりしていないで、社会勉強しろって言われてね」 「そうなんですか、どおりでちょっと緊張してるわけですね。大丈夫ですよ、飲み会だと思ってください」  おそらく若い女としゃべる機会がほとんどないのだろう。そわそわと落ち着かない様子だ、目も合わせてこない。ガチガチにならないようなるべく相手を安心させ親近感を持たせるしゃべり方や表情に徹する。この辺りは自然と身に着いたものだ、相手を観察してどんな人間なのかを予測して対応を変える必要がある。  こういう客にはまず自分が会話のリードをして、慣れてきたら相手の好きな分野を好きなだけ喋らせるに限る。自分の得意分野、好きな事をしゃべらせると無口な男でもやたらとしゃべるのだ。気分が良くなって来ればこちらのもの、飲み物の注文を促せばいろいろと注文してくれる。 「大学では何を研究してるんですか?」  この辺りの質問が一番無難だろう。専門分野などわかるはずがないので、凄いですね教えてくださいと言えば好きに語るはずだ。男は一口ビールを飲むと呟くように言った。 「風土や風習だよ。伝承とか、言い伝えとかを研究してる。何でそんな風習があるのか、歴史を調べたりね」 「へえ、そうなんですか。例えばどんな風習があります? 面白いものとかありますか?」 「そうだな、例えば。ヌキかな」 「ヌキ?」  案の定聞いたことがない単語に琴音は首を傾げる。どんな字なのかも想像がつかない。 「鬼だよ。抜く鬼と書いて抜鬼。ある地方に伝わる鬼なんだけど。聞いたことない?」 「ちょっとわからないですねえ。鬼なんて……」 「そうかな? 君は知ってるんじゃないの」  急に口調が変わった。先ほどまでいかにも場慣れしていない気の弱そうな男だったというのに、今は真っすぐ琴音を射貫く視線で見つめてくる。その雰囲気に琴音も一瞬たじろいだ。 「え、ええっと」 「抜鬼という表現はしなかったかな。じゃあ、こう言えば通じる? オニワさん」  その言葉を聞いて琴音は背筋が凍るかと思った。客に対してポーカーフェイスを崩したことはないというのに、目を見開き男の顔を凝視してしまう。男は無表情で琴音を見つめていた。
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