66人が本棚に入れています
本棚に追加
「知ってるよね、オニワさん。息子もよく言ってたよ。年寄りがオニワさんオニワさんって昔話してたらしいからね、安東琴音さん」
本名を名乗った覚えなどない。いや、知っているのだ、彼は。オニワさんの伝承は殺人事件があった当時の地元に伝わる伝説だ。それを知っていて、琴音の名前まで知っているのなら間違いない、この人はおそらく。
「そういえば自己紹介がまだだった。ササキという。普通にイメージする三文字の佐々木じゃなく、植物の笹と木で笹木だ。知っているだろう? 拓真の苗字だから」
「……」
笹木拓真。被害者の一人で琴音と一緒に遊んでいた男の子。
「あと五日で息子の命日だ。いろいろと話したい。まあ、場所は変えたいから店が終わったら連絡してくれ。君の為でもあるよ。主に身の安全、って意味で」
笹木は手帳を開くと中に入っていた付箋に電話番号だけ書いて琴音に押し付ける。何も言えずにいると連れの男に二言三言、何かを言うとそのまま店を出た。付箋を持つ手が震える。
「カナちゃん、二番ヘルプ入って」
「は、はい」
ママからの指示にはっとして別テーブルへと移った。その後なんとか引きつりそうになる顔に無理やり笑顔を貼り付け、失礼のないように客の対応をこなしていく。しかし頭の中は笹木の事でいっぱいだった。
最初のおどおどした雰囲気とはうって変わった静かな空気だった。おそらく冴えない男のような雰囲気は琴音を近づけさせるための演技、油断させるためのフェイクだ。店に来たのが偶然だと考える程能天気ではない。調べられていたのだ、どこで何をしていたのか。住所などもばれている可能性がある。
客との会話が全く頭に入らない状態で店は終わり、また働かないか、というママの誘いを丁寧に断り今日働いた分の給料をもらうと琴音は足早に店を出た。
電話をかけるべきか、少し迷った。無視していいし何ならストーカーをでっちあげて警察に行ってもいいかもしれない。危害を加えられてからでは遅い。
しかし気になるのは去り際のあの一言だ、君の為でもあると言っていた、しかも身の安全。それに雰囲気に敵意がなかったのだ。子供の頃保護者達から責められていた時、皆凄い剣幕だった。明らかな敵意と悪意を向けてきたのを今でもはっきり覚えている。殺されるのではないかと思うくらい怖かったのだ。
しかし笹木はどうかと言えば、先ほどの雰囲気はそういうのとは少し違う気がする。以前客の中で自称占い師が居たのだが、それまで酔っぱらった様子でへらへらしていた占い師が急に真剣な顔になり忠告をしていた事があった。
「二十歳までに大きな試練がある。逃げてはいけないよ」
何の事だろうと首を傾げた。あの時の占い師の真剣な表情に笹木の雰囲気が似ていた。忠告、警告だろか。いずれにせよ、あの時の保護者達のように琴音を責め立てる気はないようだ。
迷った挙句、琴音はメモの電話番号に電話をかけた。念のため非通知でかけると一度目の呼び出しですぐに電話がつながる。
「今終わった」
短くそう言えば、笹木は最寄り駅の北口を指定してきた。琴音が終わるまでずっとこの辺りで時間を潰していたらしい。その執念に警戒しながら注意深く駅へと向かった。
北口は住宅よりバーや飲み屋が多いエリアだ。琴音が働いていた店も北口を歩いて五分ほどいったところにある。酔っ払いが騒いでいる中、一人タブレットを操作しながら壁に寄りかかっている笹木の存在は何だか浮いて見えた。
最初のコメントを投稿しよう!