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「樹市くんの家、狐集に戻ってきたみたいよ」
高校に入学する前、姿見の鏡の前で真新しい制服のスカート丈を調整していた私にそう告げたのは、母だった。
「樹市って……瀬能樹市!?」
スカートがずり落ちるのも構わず詰め寄る私に、母は苦笑いしながら言う。
「そうそう。三年ぶりになるかしら。自治会長さんが言ってたけど、また元の家に住むんだって。ほら、千年杉の所の。それで樹市くん、四月からあんたと同じ狐集高に通うって」
「樹市、が……」
突然の話に、私はすっかり動揺していた。スカートをずり下げたままリビングをうろつく私に、母は少し言い難そうに口を開く。
「幼馴染みが帰ってきて舞い上がる気持ちも分かるけど……。でも入学するまでは、会いに行かない方が良いわよ」
「なんで?」
「聞いた話だと、樹市くんの所、東京での仕事が上手くいかなかったみたい。お父さんも狐集には戻って来てないって話だし、家の方もバタバタしてるみたいだから、落ち着くまでは押しかけちゃ迷惑よ」
「……」
気持ちばかりが急く私に、母は釘を刺す。
だが三年も音信の途切れていた幼馴染みとの再会に、どうにも心は落ち着かなかった。
迎えた入学式の日も、私は朝から喜びや気恥ずかしさで浮足立っていた。
並木道に鮮やかに咲く桜を見る余裕もなく、私の頭の中はこれから会う樹市のことで一杯になっていた。
(小学校の卒業式以来だもんね。まさか都会に染まって、性格変わってたりして。『お前、誰? 馴染み面して気安く話し掛けんなよ』なんて言われたら……)
そわそわと呟きながら校門をくぐった時、桜を見上げている一人の男子生徒の姿が目に入る。
薄紅色の花びらが舞い散る桜の下に立っていたのは……間違いなく樹市だった。
昔のままの懐かしいその横顔を見た瞬間、それまでの心配がすっと心の奥から消えていくのが分かった。
「……樹、市」
思わず潤み始めた瞳を慌てて制服の袖で拭って、急いでその背後に近付く。
最初に話し掛ける言葉は、前もって決めていた。
私は胸に手を当ててひとつ息を吐いてから、声を掛ける。
「樹市、やっぱり瀬能樹市よね。クラス名簿に見覚えのある名前が載ってたから、絶対そうだって思ったわ」
「……」
「あんたね」
「いや……もしかして、結か。蓮條、結?」
「決まってるじゃないの」
私は両手を腰に当てて、ピンク色のグロスを塗った唇を小さく尖らせる。
「まったく。せっかく狐集に戻ってきたんだったら、連絡のひとつくらい寄越せば良いのに。中学の時だって、メールしても全然返事くれないんだから」
「わ、悪い」
バツ悪そうに人差し指で頬を掻く樹市の癖は、昔から変わっていなかった。
私はローファーの踵を上げて背伸びすると、樹市の頭の上に手の平をかざす。
「随分と背が高くなったわね。昔はちっちゃかったのに」
「ちっちゃくて悪かったな。でも結の方こそ変わったな。化粧もしてるし、まるで女子高生みたいだぞ」
「あんたね、ぶっ飛ばすわよ」
その他愛ない掛け合いも、昔のままだった。
少しぶっきらぼうな話し方も、ポケットに手を突っ込んで肩を竦める仕草も、時折遠くを見る時の瞳の色も。
私の視線に気付いたのか、樹市は怪訝そうに顔をしかめる。
「なんだよ、ジロジロ見て」
「何でもない。もうちょっと男らしくなったかと思ってたけど、昔と全然変わってないからガッカリしただけ」
「ちぇ、よく言うよ」
私の言葉を鵜呑みにする所も、いかにも樹市らしかった。
そうしてひとつずつ言葉を交わす度に、私は樹市が本当に狐集に戻ってきたのだと実感せずにはいられなかった。
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