第五幕 暗転

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「結も覚えてるわよね、去年の夏にウチが付き合ってた南高の二股男。今は冗談めかして笑い話にしてるけど、別れた直後は実は結構ショックだったんだよね、ウチ」  抱えた膝の上に頬を付けて、茜子は寂しそうに呟く。 「あんな男でもさ、一時期は本気で好きになった人だし。そんな人から突然裏切られたら、やっぱりウチだって……落ち込むよね。周りには平気そうに見えてたかもしれないけど」 「……茜子」  それ以上、何も言えなかった。  その時の私は、茜子にいったい何と声を掛けたのだろうか。たとえ記憶には残っていないとしても、今はそれを訊く勇気も無かった。気丈に振る舞う茜子は、私が思っている以上にずっと繊細な心の持ち主だったのかもしれないのに。  黙り込む私に、茜子は仲睦まじくグラウンドを行き交う鳥たちの姿を見つめて言う。 「その時さ……あいつ、瀬能は本気で心配してくれてさ。ウチが空元気だってことも分かってた。あいつさ、ウチに言ったの、『そんなに無理すんなよ』ってさ」 「樹市が……そんなこと」 「その言葉を聞いた瞬間さ、ウチ、それまで抑えつけてきた感情が一気に溢れ出してきて……。いつの間にかあいつに抱きついて大泣きしてた。あいつさ、優し過ぎるのよ。そんな状況になっても、黙ってウチが落ち着くのを待っていてくれたんだから」 「……」  確か橙子さんも似たようなことを言っていた気がする。人は生きているだけで他の誰かを傷つけているのだと。だからこそ人は、いつも誰かに支えられて繋がり続けていくのだとも。  茜子は自分の言葉を噛みしめるように、静かに言う。 「自分が落ち込んでる時にそんなに優しくされたら……ずっと頼りたくなる。瀬能はそんなウチの気持ちには全然気付いていなかったみたいだけど。まあ、それはそうよね、あいつはその時は結と付き合ってたんだから」 「私と……樹市が」 「そう、恋人同士だった。確か去年の夏の狐集池の祭りの時から、付き合い始めたって聞いたわ。結がよく付けてた青い髪留めも、その時に瀬能から貰ったもののはずよ」 「やっぱりあれは……樹市から」  回廊めぐりの話を聞いた時から、うっすらとそんな予感はしていた。  たとえ痕跡は認識できないとしても、彼はずっと私の傍に居た。  写真で私の隣に映っていたのも、去年の夏祭りの夜にプラチナブルーの髪留めをプレゼントしてくれたのも、スマホに残り続けるたくさんのメールも、  やはりその相手は……樹市だったのだ。 「実際、周りが(うらや)むくらい、あんたたちはお似合いだったからね。だから余計に、ウチが瀬能に向けた想いが間違いだってことは自分でも分かってた。結を傷つけてしまうってことも。でもウチは……、どうしても自分の気持ちが抑えられなかった」  そこまで言うと、茜子は深く息をつく。 「いくら隠そうとしても、やっぱり親友よね、結にはすぐに気付かれたわ。ウチが自分を裏切って瀬能に手を出そうとしたんだから、あんたが本気で怒るのも無理はないわ」 「それが……喧嘩の原因」 「そう、あとは結が噂で聞いた通り。ウチらの仲はひどくこじれた。でもこのまま険悪な状態をいつまでも続ける訳にはいかなかったからね、結局二人で話し合って、ウチらは回廊めぐりをすることに決めたの。瀬能に関する恋愛の感情を全て消し去ってしまえば、全てが元に戻せるだろうって」 「そんな……こと」 「今思えば浅はかだったと思うわ。でもその時には、他に方法がなかった」 「で、でも……だったらどうして茜子はそのことを覚えてるの? 皆、私と樹市が付き合っていた時のことを覚えていないのに」  訊ねる私に、茜子は小さく首を横に振る。 「分からない。でも多分、ウチが管狐を信じていなかったからだと思う。実際ウチは瀬能の物を何も身に着けていなかったし、クダの回廊をくぐる行為自体が、全てを水に流すための単なる儀式だと思ってたから」 「儀式……」 「そう、ただの理由付け。だから洞窟を通り抜けた後、結が本当に記憶を無くしたことを知った時は驚いて声が出なかった。その時になって、ようやくウチは分かったの。回廊めぐりの言い伝えは本当だったんだって」 「そんな……ことが」
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