第一幕 神石わたり

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『管狐が災いをもたらさぬよう、狐集池の傍にある狐集神社では、今でも毎年の夏に管狐を(まつ)る神事がとり行われている――』  邦代部長の独白(モノローグ)が続く中、樹市は赤いボールペンで台本の自分の台詞をチェックしていた。  樹市が狐集に戻ってきてから一年が経ち、私たちは昔のように気安く会話のできる幼馴染みの関係に戻っていた。だがお互いの三年間のブランクを埋めていく中で、失踪しているという樹市の父親の話題が出ることはなかった。こちらから色々と詮索するのも(はばか)られたし、いつか樹市が自分から話す機会がくると思っていた。 「……」  台本にある『彰馬役:瀬能樹市』という名前を指でなぞる。  たとえ樹市本人は何も変わっていないとしても、彼を取り巻く環境は昔とは違っているのかもしれない。  そんなことを考えていた時、ふと、どこからか様子をうかがうような眼差しを感じる。  車座になった部員たちの一番外側に座る彼女――楠木(くすのき)香沙音(かさね)が、私たち……いや、樹市のことを見ている気がした。 「じゃあ次は1―1の回想シーン。咲奈と彰馬の出会いの場面。楠木さん、オウケイ?」 「はい」  邦代部長の指示に続き、彼女は長い黒髪を耳に掛けて台詞を読み上げ始める。中学の時から演劇部で経験を積んできた彼女は、一年の時からメインキャストに選ばれることが多かった。今回の『狐集池』でも、彼女は主人公の彰馬の恋人である咲奈を演じることになっていた。 『あなたをよく山の中で見かけていました。私は北の山守(やまもり)の家の咲奈と申します。狐集池へ向かう管狐の姿を、あなたが見たという噂を伺いました。もしよろしければ、私にその話を……』  その透明感のある声が、稽古場に静かに響いていく。  もし仮に、私と樹市の間に昔とは違う何かがあるとしたら……、  それは、彼女の存在に他ならなかった。  最近一度だけ、彼女のことを樹市に訊ねたことがある。  あれは部活が終わった後、樹市と二人でオレンジ色の夕暮れに染まる河川敷の道を帰っている時だった。 「ねえ、樹市。……楠木さんって、どんなタイプだと思う?」 「何だよ、いきなり」  自分でも意地悪な質問だとは分かっていた。同じ演劇部員である同級生の印象など訊いても、樹市が困るだけだということも。  思わず口をついてしまった言葉に、私は上目遣いに伺うような視線を樹市に向ける。 「だって彼女、ヒロインでしょ。主役から見れば、ヒロインを演じる役者の人柄は気になるものなんじゃないの?」 「それは……」  困ったように口ごもった後、樹市は小さく首を横に振る。 「彼女、あんまり感情を表に出さないからな。大人しそうな性格だとは思うけど」 「……そう、よね」  私は何を期待していたのだろう。樹市がそう答えるのは分かりきっていたはずなのに。  少し気まずい沈黙が流れる中、私は取りつくろうように言う。 「ごめん、変なこと訊いて。ほら私の演じる凛ってさ、いわばヒロインの咲奈の恋敵役でしょ? 何だか変に意識しちゃってさ」 「あくまでも舞台の上での役回りなんだから、あんまりのめり込み過ぎるなよ。結に本気で威嚇されたら、男の俺だって震え上がるからな」 「ひっどい」 「冗談だって。とは言っても、その気合の入り方も結らしいんだけどな」 「悪かったわね、可愛げがなくて」  なるべく陽気な声を出して軽口を叩いてみるが、自分でも笑顔が乾いているのが分かった。どうしてだろう、今回の舞台の配役が決まってから、何故だか心が妙に落ち着かなかった。  ただ、自分の気持を素直に伝える。  たったそれだけのことすら出来ない私は、きっとこの川の淀みにいつまでも滞留する小さな葉っぱのような存在で、浮いたり沈んだりしながら水流に飛び出すのをずっとためらい続けている。  川に架かる小さな石橋の(たもと)で、私たちはいつものように別れる。 「そんじゃ、また明日な」  バッグを持つ手を軽く掲げて立ち去っていく樹市に手を振り返す。その時の私に出来たのは、その程度のことだけだった。  樹市の姿が見えなくなってから、私は道端の石ころをローファーのつま先で蹴飛ばす。落ちた石の波紋に揺れた二枚の葉が、まるで互いに身を委ねるように重なり合った後、ゆっくりと水面を流されていくのが見えた。
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