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そうして半時間ほど山道を歩いていくと、狐岩と呼ばれる岩場へと出る。
『神石わたり』とは、この幅五十センチほどの狐岩の上を地元の若者たちが歩いて渡るという行事だった。
一メートルほど隆起した岩の両端には注連縄が括りつけられ、その下には小さな木製の祭壇とお神酒が供えられていた。
神社でよく見かける真新しい白い紙垂を、茜子が指先で摘む。
「相変わらず仰々しいんだから。祈願に厄除け、人間に頼られっぱなしで管狐も大忙しね」
「御神石の上を歩くっていうのも、なんだか罰あたりな気がするけど」
「なあに、管狐は神様の使いなんだから、それくらい大目に見てくれるって」
からからと笑いながら、茜子は手を掛けて一気に狐岩に飛び乗る。
「私が一番乗りね。絶対に渡りきって彼氏祈願するんだから」
軽やかに狐岩の上に立った茜子は、平均台の体操選手のように両手を広げて岩の上を渡り始める。
「足元、気をつけて」
「平気、平気」
ごつごつとした岩の上を半分ほど進んだ茜子が、こちらを振り返ってVサインをしておどける。
同じように石の端に足を掛けた私は、後ろで何か考えごとをしている樹市の方を振り返る。
「樹市、何ぼんやりしてんのよ」
「あ、ああ。悪い」
「もう。私も行くから、樹市もちゃんと後に続きなさいよ。そんな上の空じゃ、管狐のご利益が無くなっちゃうわよ」
「分かった分かった」
顔を上げると、先を行く茜子はとっくにゴールに辿り着いたらしく、十メートルほど先の岩の端にしゃがみこんでこちらに両手を振っていた。
再び樹市の方に向き直った私は、ひとつ息を飲んでから小声で告げる。
「あのさ、樹市。今度の狐集池の夏祭り……樹市が良かったら、私と二人で行かない?」
「……え?」
「いや……何となくそう思っただけ。気が向いたら……うん、樹市の気が向いたら。その気になったら、返事はいつでもいいから」
樹市の返事を聞く前に、勢いよく狐岩に飛び乗る。赤くなった顔を見られたくなかった。
どうして突然そんなことを言ってしまったのか、自分でも分からなかった。
ただひとつだけ言えるのは、さっき茜子が言っていた樹市と楠木香沙音の噂話を聞いてから、私の心の中には焦りに似た感情が湧き上がってきたということだけだった。
「ちょ、ちょっと、結……」
背後からどこか戸惑うような樹市の声がする。
恥ずかしさのあまり聞こえていない振りをして岩の上を駆け出した瞬間、岩陰から飛び出してきた小動物がすぐ足元を横切る。
思わずつま先を挫いてバランスを崩した私は、小さな叫び声とともに岩の縁から足を踏み外す。
「結っ!」
後ろ向きに岩から落下する私の腕を、樹市が咄嗟に掴む。
めまぐるしく空中を移り変わる景色の中、一瞬だけ視界の片隅に映ったのは――、
私の体を抱きかかえるようにして地面に倒れ込んだ、樹市の苦痛に歪む顔だった。
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