流れる雲に君を問う

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 額に汗が噴き出る。生暖かい風が全身にまとわりつく。日光がじりじりとむき出しの肌を焼く。  それら全てが煩わしくて、脇目も振らず自転車をこいだ。無我夢中で足を動かし、空港から遠ざかる。  焦りと悔しさと罪悪感でわけがわからなくなりそうだった。  先輩が本気で心配してくれているのはわかっている。一時的なのは当然だ。彼にとって私は、数回会ったことのあるただの下級生なのだから。それなのに、熱中症になりかけたときも真剣に看病してくれた。  けれど、その気持ちに応えるには、私の体は弱すぎるのだ。  ベッドからろくに出られなかった私の体。陸上部の練習なんて、一日一日が拷問のような苦しさだった。だが、苦しいからといってそこでやめていたら、こんな風に人並みに走れるようにはなれなかった。  無理をしなきゃいけないときもあるのだ。まだ限界が来てはいない。それなのにこのまま大会を迎えたら、一生悔やみ続けるだろう。  それに、本当は大会以前の問題だった。今年の春から、記録が全然伸びていない。それどころか、他の部員との差が開き続けている。  いつか、いや、もしかしたら明日にでも、追いつくのが絶望的に思えるほどの差をつけられるかもしれない。ただでさえ劣っているこの体でみんなに追いつくには、練習量が圧倒的に足りなかった。  だから私は、やめるわけにはいかない。先輩の優しさを踏みにじったとしても……。  ――気がつけば、自分の家を通り過ぎていた。  どうやら、大通りをひたすら走り続けていたらしい。周囲が薄暗くなっていたので荒い息をしながら空を見上げると、不気味な黒いもくもくとした雲が一面に広がっている。今にも雨粒が落ちてきそうな雰囲気だ。  回れ右をし、ペダルを踏み込んで十字路まで戻る。今度は間違えずに角を曲がった。  ……そのはずだったのだが。 「……?」  いつもの帰り道。今日も通ってきた風景。けれど、どこか違和感があった。それが何か判らないまま家にたどり着く。  そして、自分の目を疑った。 「……売物件……?」  自転車を降りて愕然とする。目を強くつぶってから、もう一度見直す。  間違いない。間違っているはずがない。私の家だ。一時間前までここにいた。屋根の色も、建物の形も、見慣れたはずの自分の家。  けれど、窓にかかっていたはずのカーテンがなくなり、代わりに白い紙のようなものが内側から貼られていて、室内が見えないようになっている。  門からは表札がなくなっていた。「笹井」と毛筆タッチで印字されていたプレートが、きれいに剥がされている。  焦燥感に駆られ、門扉を開けて中に飛び込む。雑草がやたら伸びた短いアプローチを抜け、玄関の扉の前に立った。  震える手で鍵を取りだし、鍵穴に差し込む。開かない。底知れぬ不安が足下から這い上がってくる。何度目かの試みで、鍵が手からこぼれ落ちた。コンクリートの地面に衝突し、金属音を立てる。 「――……」  わからない。何がどうなっているのだろう。  奥の方には、庭が見えた。  私の体のためにと薬草ばかり集め、丹精込めて世話していた母の庭が。  はびこる雑草に埋もれて見る影もなくなっている。呆然としながら、目が無意識に生活の痕跡を探していた。  父は単身赴任で、母は仕事中だ。だからこの時間、家が無人なのはいつものこと。  だけどこの無機質さは。
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