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「――雪花……、雪花……?」
今度は男子の声が聞こえた。
空の下が似合いそうな快活な声が、今は湿り気を帯び、時にかすれ、私の名を繰り返し呼んでいる。
(やめて……。そんなに心配そうな声出さないで)
重いまぶたに力を込め、こじ開けるようにしてゆっくりと持ち上げる。すると、先輩の顔が逆さに見えた。
(……なんで……)
ぼんやりと目に映る状況を整理して――、一気に覚醒した。
――先輩から、膝枕されている!
「わあああああっ!」
「うわっ!?」
はねるような勢いで立ち上がると、頭突きされそうになった先輩がとっさにのけぞった。危機一髪だったがそれどころではない。
「な、な、な……、何してるんですかっ」
「何って……、あれ、意外と元気そうだね」
先輩は私を見てほっとしたようにつぶやいた。
「良かった。いきなり倒れるから心配したよ」
(倒れた……?)
膝枕があまりに衝撃的で、こうなる前の記憶を呼び覚ますのに苦労した。
時間をかけて、ようやく思い出す。突然襲ってきた事故のような不快感と頭痛に、なすすべもなく意識を失ったことを。
「保健室にはちょっと事情があって連れて行けなくて。ああ、いきなり立つと危ないから」
先輩が手振りで座るよう促すので、ベンチの端ぎりぎりに腰を下ろした。
しかし、なぜ膝枕だったのだろう。まだ心臓がばくばく言っている。素直に礼を言う気にはなれないが、毒気を抜くのが目的なら大成功だ。
けれど。
「……さっきは、ごめん」
「え……」
「さすがに無神経だった。知らない世界に一人きりなんて、君が一番大変なのに。でも、途中で君を放り出すつもりはないんだ。ちゃんと元の世界に戻れるよう協力する。だから、これからどうするか、二人で考えよう」
先輩らしくないしんみりした声が切なくて、胸が締め付けられる。
「……謝らないで下さい。先輩は、悪くないんですから」
私が甘えていただけなのだ。勝手に甘えて、一方的に裏切られた気になって、先輩に八つ当たりした。
先輩にとっての優先順位。そこに私が入っていないことに、勝手に傷ついただけ。
(それでも、先輩は、私のことも本気で心配してくれている……)
口を引き結んだ私を見て、先輩は少し目を細めた。それから、私の前髪に手を伸ばして、そうっと横に払った。
「な、なんですか……っ?」
なぜこうも心臓に悪いことばかりしてくるのか。図らずも赤くなった顔を背けて、先輩の手から逃げた。
「顔色を見ようとしただけなんだけど。やっぱり、心配させてはくれないんだな」
適当な言葉でごまかそうとしたが、先輩の苦笑いした顔を見て思い直した。
「……だって、心配するのはしんどいじゃないですか」
顔をうつむけたまま、続ける。
「先輩は、医者でも科学者でもないんです。心配しても何もできない。それなのにそういう人は、自分を責めたりしていました。でも、そんなしんどい無限ループ、私は望んでないんです」
そして、心配してもらっても、どんなに親切にされても、私は何も返せない。お互いが苦しいだけの関係が長くは続かないことを、私はもう知っている。
「でも君は、今はそんなふうに走れるんだろう?」
私が何のことを言っているのかわかったのだろう。先輩が静かに言った。確かにその通りなので、頷いた。
自分の思い通りにならなかった体。みんなに迷惑をかけないと何もできない無力さ。
それが劇的に変わったのは、中学の頃だ。両親が病院の先生と相談して、一か八か、運動部に入れて見ることにした。さらに悪化してしまう場合もあるようだが、私の場合は良い方に転がったらしい。
そのときに入ったのが陸上部だった。
最初は練習について行くことなんてできなかった。数え切れないほど倒れて、泣きたくなるくらいみんなに迷惑をかけた。それはもう、感謝してもしきれないほどに。
けれど、そのおかげで体力が付き、今では普通の子と変わらない生活ができる。
「だったらさ、不毛なんかじゃなかったってことだろ。君も頑張って、周りのみんなも頑張ったから、今みたいに元気になれたんだ」
「……でも、結局私が丈夫になっただけで、みんなのためになんか何もできてなくて……」
「しつこいな」
くしゃりと、先輩が私の髪をかき乱す。
「お前が……、じゃなくて、君がそういう辛気くさい顔してる方がこっちは嫌なんだよ。隠してるつもりだろうけど、君は素直に顔に出るしね。だったらもう全部言ってくれて、一緒に悩ませてくれる方が断然いい。そうじゃないと、そもそも自分じゃ頼りないんじゃないかとか、余計なことまで考えちゃうだろ」
「……失礼ですね」
むっとした声になるよう、注意して声を出した。気を緩めると、また甘えが出てきてしまいそうだった。
先輩の存在が、私の中でどんどん大きくなっていく。新たな思いが芽生えてしまう。
もっと速く走りたいと思うのと同じくらい、贅沢な願いが。
あんなにきっぱり線引きをしておいて、こういうことをするから。
本当にむかつく。
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