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「焦らせてごめん。でも、雪花、君、自分じゃわからないだろうけど、どんどん顔色が悪くなってるんだ。こうやって起き上がっているのが不思議なくらいだよ。今日は最初から調子が悪そうだったから、そのせいかとも思ったんだけど……」
先輩は一息つくと、言いにくそうに続けた。
「ずっと、考えてたんだ。ドッペルゲンガーのこと。なぜ、自分とうり二つの人間に出会うと死ぬなんて噂が流れたのか」
先輩が、そっと私の頬に手を添えた。けれど、その暖かさを感じる余裕すらない。
「俺も、ドッペルゲンガーの噂をすべて信じてるわけじゃない。こうしたら死ぬとか呪われるとか、いかにもって感じだろ? ……けど、君の状態を見てると、嫌な予感がしてたまらないんだ。君のその不調は、こっちの世界に紛れ込んだせいじゃないかって」
「……、どういう、意味ですか?」
そう聞くのは勇気がいった。唇が震え、先輩の指に触れる。呼吸が、うまくできなくなる。
「この世界にとって君は異物だ。本来ならいるはずのない存在だから、この世界としては排除したいのかもしれない。……つまり、これ以上この世界に居続けると、君の存在が抹消される可能性がある」
先輩の言っていることがすぐには飲み込めなかった。停止しそうになる思考を、必死でめぐらせる。
「ま、待ってください……。それって、戻る、じゃなくて、ほんとに消える……ってことですか……? 」
まさか。そんなことって。
つばを飲み込もうとしたが、口の中が乾きすぎてできなかった。ようやく、先輩の視線の意味が判った。
痛ましいものでも見るような瞳。慈しむような、けれど、悲しみを隠せないその色。
「……そんなに、私は死にそうですか? 先輩に、そんな顔させるほど?」
なんとか笑顔と呼べるものをつくってそう言うと、先輩もわずかに口の端を上げた。
「次に倒れたら、そう錯覚するかもしれないな。……きっと、体は残らないし」
今にも死にそうな状態でドッペルゲンガーが倒れて、消える。それは死んだように見えるだろう。
実際は元の世界に帰れたのか、――それ以外なのか、この世界の人間には判らない。
「多分、もう……タイムリミットが近い」
最悪の想像が現実になってから後悔しても遅いのだ。
「さっきも言ったけど、原因は君のはずだ。何か思い当たることはない?」
先輩の深刻な表情が怖くて、私は視線を地面に落とした。
「だから……、何もないんです。変わったことなんて、してない」
思い当たることはないけれど、私だって死にたいわけじゃない。必死に記憶を巡らした。
部活での出来事、空港の公園での先輩とのやりとり、そして自宅へ戻って空き家の表示を見つけたこと。
――いや、違う。何かあったとしたら、先輩と会ってから、空港を後にするまでの間。
いつもと違うのは、ちょっと体調が悪かったことと、先輩とケンカしたことしか……。
「――じゃあ、例えば、何か持ってるとか」
「え……?」
何かと言われても、鞄はもう消えてしまって、残るのは今着ているユニフォームとジャージくらいだ。
立ち上がって全身をチェックする。ジャージのポケットを叩いて思い出した。「関係ないと思いますけど」と前置きして、ポケットから取り出した物を先輩の目の前に持ち上げてみせる。
「これ、ただの校章です。たぶん、着替えたときにでもとれたんだと思います。夏休みになってから制服は着てなくて、鞄の中に落ちてたのに気づかないままだっただけで――」
「そっか。それか……」
先輩は私の言葉を途中で遮って言った。どこか、ほっとしているように見える。
「それは、俺のだ」
(――え?)
そう言われて、反射的に先輩の制服を見た。そこで初めて気づく。胸ポケット部分に、生徒がつけているべき校章がないことに。
「たぶん、君に手を振り払われたときだろうな。古事記とかでもよくあるだろ? 黄泉国に行って、そこで出された食べ物を口にしたら、もとの世界へ戻れなくなるってやつ。食べ物じゃなさそうだったから、こっちの世界の物を身につけてるか持ってるかしてるんじゃないかと思って、鞄の中も勝手に探しちゃったけど」
そういえば、公園で先輩の手を振り払ったとき、ぷつんと音がしたような気がした。あのとき、私の手がぶつかるか何かして、校章が外れてしまったのだろう。それが偶然、開けっ放しだった私の鞄の中に転がり落ちたのだとしたら。
「――じゃあ、ほんとに、これが先輩の……」
「うん。きっと、それを俺に渡せば、君は無事に戻れるはずだ」
「―――……」
そう、なのだろうか。
これを先輩に返したら、元の世界に戻れる?
校章を受け取ろうと、先輩が手を伸ばしてきた。反射的に手を握り込み、先輩から視線を外して、必死に考えを巡らせた。
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