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「雪花。時間がないんだ。取り返しの付かないことにならないうちに帰った方がいい」
先輩はどこまでも無慈悲で優しい。逃げ道なんて示してくれない。その容赦のなさに、思わず笑みがこぼれた。
確かに、逃げ続けるのは私らしくない。逃げたって、諦めかけたって、最後までは逃げない。
――それが、私だったはずだから。
「先輩は……優しくないですね」
呼吸を整えてそう言うと、先輩は瞬きを数回してから答えた。
「心外だな。俺は、雪花には優しいと思うけど?」
「でも、そっちの雪花ほどには優しくないでしょう?」
抑えたつもりだったが、声が震えてしまう。
今度こそ先輩は驚いたようだった。真意を伺うように、うつむき加減の私の顔を見る。
先輩にこれ以上迷惑はかけられない。けれどまだ、決意ができない。
(だから、先輩。言葉を下さい。この世界を断ち切れる、別れの言葉を……)
先輩に背中を押して欲しくて言った、少し茶化した言葉は、きちんと先輩に届いたようだ。先輩も口の端を少しだけ上げて、言った。
「当たり前だろ。こっちの雪花は――俺の彼女なんだから」
(……ああ。やっぱり)
体の奥底から這い上がってくるような、長く重い溜息がでた。うすうす気づいてはいたけれど、実際先輩に口からはっきり言われると、胸がきしんだ。
「あいつは君と違って、今でもベッドから離れられないんだ。ほとんど学校にも来られなかった。お父さんの転勤先に、彼女みたいな生徒のための学校が併設されてる病院があるらしくて、引っ越したんだ。だから、しばらく会ってない」
会ったばかりの私に親身になってくれたのも、やけに距離が近いのも、先輩の近くに、別の私がいたから。
「でも、頻繁にやりとりはしてるんでしょう?」
「そりゃあね。毎日」
「……むかつきます。私だって、雪花なのに」
本音を少しだけにじませる。すると、先輩は目を丸くして、それから吹き出した。さすがに失礼なので、にらみつける。
「ごめんごめん。でもさ、君とあいつは別人だよ。似てるからこそ、よくわかる。……だから、君には、感謝してる」
「え?」
見上げると、優しくほほえむ先輩の瞳がかすかに揺らいでいた。
「夏休みに向こうに行こうとしたら断られてさ。受験生なんだから勉強してろの一点張り。泣き言なんて言わないし、放っといても大丈夫なのかと勘違いしてた。……でも、平気なわけないよな。君に会って、それを再確認させられた」
この世界の雪花を思い浮かべているのだろう。先輩にとって大切なのは、その雪花であって私ではない。
先輩がしゃべるたび、彼に執着しようとする心が一枚一枚剥がれていく。
「君のことは心配だけど、それは俺の役目じゃないしな。戻ったらちゃんと誰かに相談するように。……そういえば、そっちの俺って、何してるんだ?」
「……知りません」
先輩以外の先輩なんて、興味がない。私の顔を見て、先輩は苦笑した。
「そう言うなよ。まあ、知らないってのがもし本当なら、まだそいつ、フリーなんじゃないか? 俺の代わりに、狙ってみれば?」
「は……、はあ!?」
先輩への思いが、鉄球付のクレーン車を使ったみたいに打ち砕かれた。からかうような笑みがさらに激情をあおる。
「ぜ……、前言撤回です! やっぱり先輩はひどいです。同じ私でも別人だって、さっき言ったじゃないですか。私だって、こっちの先輩を、先輩の代わりにはしたくない」
「おお、大した自信だな。それは俺を落としてからの話だろ。言っとくけど、俺は手強いよ?」
「すごい自信なのはそっちでしょう。どんな人かも知らないくせに!」
「いや、大体わかるよ。俺、ほとんど迷ったことないからな。平行世界ってのが選択肢で迷うたびに生まれるものだとしたら、俺の場合は枝分かれなんてないようなもんだから。見た目も性格も、行動原理も、この俺とほとんど同じじゃないかな」
そして、目を細めて続けた。
「だから、いいよ。雪花に代わりにされても。俺なら気にしないから」
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