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中学三年生の夏休み前、私は初めて現実の残酷さをまじまじと感じた。
夢が消えていく音はとても静かで寂しいものだ。
昔から、私は美術の先生を目指していた。
正月、うちに来てくれる叔父さん。
叔父さんは高校で美術教師をしている。
いつも家に来る度、叔父さんは私に美術を教えてくれていた。
叔父さんが私に教える。
「美術は、綺麗を作り出すのともう一つ意味があるんだよ」
私はその言葉が大好きだ。
叔父さんが家に来るたび、叔父さんに向けて言う。
「美術は美しいものを表現するための唯一の手段。だよね」
叔父さんは笑って答えてくれた。
「ああ、そうだよ」
私は一年に一度しか会えない叔父さんに絵を見せるため、当時少なかったお小遣いでスケッチブックを買う。
新品のクロッキー帳に絵を描くのは楽しかった。
情景画、人物画、模写、イメージ画…
たくさん描く。描くたびに上手くなっていく絵を誇りに思う。
それを叔父さんはいい絵だと毎年褒めてくれた。
そんな叔父さんの様になりたい。
そう思い、私は美術の先生を目指した。
中3の夏。
私は、美術でも表現できない美しいものに出会う。
それは、弓を射る少年だった。
私の家は神社だ。親が神主をやっている。
うちの家は山の方にあって、神社と一緒に弓道場もあった。
今や弓道場は他の人に譲っていて、私たち家族は近寄りもしない。
前日、私は親に進路希望調査票を見せていた。
私は憧れのおじさんのようになるため、美術の道に進もう。
そう未来設計していた。ただそれを親は許さない。
一人っ子だから私しか家を継ぐ人が居なかった。
本来は男の人が神主をやる。
そのために、両親は許嫁まで作っていたのだ。
小さい頃、両親に私は毎日のように言ってた。
「私ね、おじさんみたいに絵の先生になりたい」
そう言うと両親は笑顔でこう言ってくれる。
「やっちゃんは絵が上手いからきっとなれるよ」
私はその言葉を鵜呑みにしていたのだ。
許してくれると思っていた両親が烈火のごとく怒る。
「お前しか家を継ぐ人がいないんだ。だからそんな夢捨てて家を継ぎなさい」
だとか
「あなたのために許嫁まで見繕ったのよ?お願い、八雲。家を継いでちょうだい」
と言う。
家を継ぐ?許嫁?冗談じゃない。
私の知らないところで私の将来が決まっていた。
愛のない結婚をして、家を継いで、愛し合っているわけじゃない旦那の補佐をする。
考えるだけで吐き気がした。
親の敷いたレールの上を走る。
その行為は将来が安定していて、親も安心して老後生活をできるのかもしれない。
でも、私はそんなレールを走りたくなかった。
自分で頑張って敷いたレールの上を一生懸命走る。
両親の様になるのではなく、おじさんの様に私はなりたいのだ。
そう考え、私は幼少期から使うことのなかった「嫌だ」と言う拒否の言葉を発した。
両親の顔は段々と重く暗い顔になる。
やってしまった。そう理解した頃には父が怒鳴り散らかしていた。
私は父と母から逃げるため、自分の部屋へと向かう。
後ろでは父が私のことを呼び止め、それを母が泣きながら止めていた。
私は実感する。家庭崩壊とはこう言うものなのだろう。
その原因になってしまったことに、少し罪悪感を抱いた。
次の日。
私はいつもよりも遅く起きた。時間は午前十一時。
今頃、両親は神社の本殿で仕事をしているだろう。
気まずくて顔を合わせられない。
リビングに行くと机の上にはおにぎりと手紙があった。
きっと母が書いたものだ。
手紙には家を継いで欲しいとの主旨が書かれていた。
考え直せだとか昨日言われたことが頭をよぎる。
私は昔から言ってたのに…
両親に裏切られたような気分だ。
家に居たくなくて外に出る。
どこに行こう。私のことを知ってる人がいない場所…
そう考えて出てくるのはこの街から出るか、弓道場の辺りに行くかの二択。
私は近所の人が寄り付かない弓道場に行くことにした。
弓道場を見たことはない。
祖父の代までは、神主が弓道をやっていた。
この神社の伝統行事として、流鏑馬をやっていたらしい。
それで父にも弓道をやらせたそうだが、父は練習に真面目に行かず、祖父は呆れて練習を辞めさせたという。
だから、祖父の代で弓道場を使う人はいなくなったのだ。
譲ってからというもの近所の人は誰も寄り付かなくなった。
それを逆手に、私は弓道場に逃げ込んだ。
そこは、昔に戻ったようだった。
昔の弓道場を見たことがあるわけではない。
でもそこには既視感があって、ずっと昔に戻った気分だ。
瓦で出来ている屋根、漆喰で塗り固められている壁。
木が多く生えているのに一枚も落ち葉がない、掃除が行き届いている矢道。
大切にされているな。そう感じられる場所だった。
その場に音が灯る。
「スパンッ」
どこからともなく鳴った音に、私は腰を抜かす。
そこには、綺麗な男の子がいた。
彼は山奥の弓道場で一人。弓を射ていた。
その姿は、消えてしまいそうなくらい綺麗な姿。
私は彼に手を伸ばす。柵があって手が届かない。
彼は、私に気づいた。
「えっと、いらっしゃい?
とりあえず危ないから中に入っておいで」
彼は、落ち着いた綺麗な声で言う。
私は糸で操られるように中に入った。
道場の中は綺麗な内装。
もう築何十年は経ってそうな道場だ。
それなのに、床板は綺麗に磨き上げられている。
鏡やきちんと整備された矢道の草、ピンッと張られた的。
日頃の手入れの良さがよくわかる綺麗な弓道場だった。
昔祖父に写真を見せてもらったが、ここまで綺麗にされていなかったはず。
彼1人でやったのだろうか。それとも他に人がいるのかも…
そう考えている私に彼は言う。
「安心して、ここには他に誰も来てないよ。
もう誰も来なくなっちゃって」
来なくなったと言った時、彼は辛そうな顔をした。
その顔が心に引っかかる。
「なんで来なくなってしまったんですか?」
自然と言葉に出してしまっていた。
彼は答える。
祖父から、神社から弓道場を引き取ったのは彼の祖母である庭月真宵さんだという。
彼女は弓道会を作って、この弓道場で仲間と弓道をしていた。
だけど、だんだん弓道をする人は減っていく。
気づいたら、現存の仲間は次々に他界して行った。
そして残ったのは真宵さんと数人の仲間だけ。
運営もご老体では難しい。
そこで、代替わりとして孫である彼が弓道会を継いだ。
ただ弓道をする人がいない今、彼しか弓道会に入会していなかった。
だから、彼は一人でここを整備している。
そう寂しそうに教えてくれる彼。
私の中の疑問は絶えない。
「なんで一人で弓道会を運営しているの?」
純粋な疑問だった。
一人で弓道会っていう大きなものを背負っていくのは大変だ。
それに近所の人たちはここに近づかない。
だから弓道会の会員は増えることがないはず。
それなのにいまだにここを守る必要性があるのか。
「僕にとってここは宝物だからね。手放したくないんだ」
彼はそう大切そうに答えてくれた。
ところで、とそこで彼から質問が飛んで来る。
「君の名前は?僕の名前は庭月颯斗だよ。
庭月は庭に月。颯斗は立つ風に北斗七星の斗」
そう丁寧に教えてくれた。
私も伝える。
「紅河八雲、です。紅の河に八の雲で紅河八雲。
周りにはやっちゃんとか八雲って呼ばれてます」
彼は八雲ちゃんか…いい名前だね。そう言ってくれる。
その後に、名前の由来について聞かれた。
由来。多分としか言えないが、一つだけ思い当たることがある。
「昔。この名前について調べたことがあって、その時出て来たのは身近な人も尊敬する人になってほしい。
みたいな感じだったような。そんな気がします」
そんな善人になれるような気がしない。
当時の私も今の私も、そう思った。
「君にあったいい名前だね」
そう彼は言ってくれる。
こう言ってくれるのは、彼が優しいのと私についてよく知らないから。
この日は、自己紹介をして帰った。
弓道場を出る。空は夕日で赤く染まっていた。
次の日から、スケッチブックと鉛筆を片手に毎日彼に会いに行く。
平日は夕方から、休みの日は一日中彼といた。
彼は、いつも同じように弓を射っている。
綺麗な立ち住まいで、ゆったりと弓を引く。
彼は矢が弓から出て行く時、目を細める癖を持っていた。
的を真剣に見つめて、矢が当たる先を見定める。
この姿を見ると、いつも不安になった。
いつかどっかに消えて行っちゃうんじゃないかと。
全てを見て前に進んでいく彼に、置いていかれそうになる時がよくある。
いつか本当に彼がいなくなった時、私はどう思うんだろう。
彼が目を細める。心がゾワゾワとした。
感覚でわかるのだ。当たると。
彼の弓を射るまでの動作はすごく綺麗だ。
最近、弓道の動画をよく見るようになった。そして気づく。
颯斗の動作は上手なんだと。
弓道の射法は、足踏みから始まる。
ゆったりと動いて、矢を放つ動作まで丁寧に行う。
私は颯斗の射法の動きの中でも、会が一番綺麗だと思った。
グッと伸びた弦と弓、ゆったりとした動きの中にもどっしりとした重みがある。
目を細めた後、矢が音を立てて出ていく。
全てが丁寧で的に当てるという行為になっていない。
颯斗の射る射は弓道という一つの動きを表しているように見えた。
その姿が私には特別なものだと感じる。
綺麗という言葉に収めていいのかも分からない。
ただ、叔父さんの言っていたことは理解できた。
「言葉にできない綺麗を誰かに伝えるために美術はあるんだ。
今わからなくてもいつか分かる」
そう諭すように叔父さんは良く言う。
その言葉の意味が今、理解できたような気がする。
言葉なんてものに縛れていいものではない何か。
それを表すためにあるんだ。そう気付けた。
颯斗は雨の日は的を張って、晴れの日は弓を射る。
私は雨の日は手伝って、晴れの日は彼の姿を絵に描いた。
毎日毎日絵を描く。彼の弓を射ってる絵を。
ただ少し行き詰まった。
どうしても彼の姿や動作がうまく描けない。
動きがよくわからないからだろうか。
絵を描く人は動作を確認したりすることも多くある。
叔父さんもそうしていた。私は颯斗の真似をする。
歩き方や服の動き全てをしっかりと見て、覚えて描く。
どれだけ彼の真似をして動いてみても上手くいかなかった。
資料を見ても彼の動きとは違う。
(違う、違う。どれも彼の動きとは似ても似つかない)
スランプみたいに一定のところから動けない。
変な焦りが私を包み込む。
「…ちゃん。八雲ちゃん。どうしたの?大丈夫?」
彼は心配したように私の顔を覗き込む。
私はもうどうすれば良いのか分からない。
「颯斗はさ、矢が上手く的に当たらない時どうする?」
そう聞いた私は答えにくい質問をしてしまったと後悔した。
「そうだね…うーん。僕の場合、深呼吸をしてそれと距離を置く。
そして色んな方向からそれについて観察して一本の道を決める。
こうするんだって言う。そしたらまたやれる」
彼はそう丁寧に答えてくれる。
深呼吸か。最近は上手く呼吸できていなかった気がする。
家での圧迫感。進路への悩みに焦り。色んなものが、呼吸を邪魔していたのだ。
ゆっくり進めればいい。無理に急ぐ必要はないんだ。
それから私は、時間の無駄遣いを悪いこととは思わなくなった。
無駄遣いも案外いいことなのかもしれない。
そう思えたのは彼のおかげだ。
だって、私たちは有り余るほど持っている。
そう思ってた。
私は見落としていた。持ってる時間は人それぞれということを。
その頃、家では両親がしつこいくらいに家業を継ぐことを薦めて来ていた。
「家の手伝いをしろ。家を継ぐんだから」
「近所さんに挨拶回りに行ってきなさい。将来あなたの仕事相手になる人たちなのよ?」
と、勝手に決めた私の将来に向けての行動を私にさせる両親に嫌気がさす。
そんな両親に私は言い放つ。
「行くところがあるから。それと家を継ぐ気はないよ」
そして、毎日私は彼の元に向かって行く。
家に帰ると、家を継いだらどれだけいいかについて説明され、洗脳されかけた。
その度、私は宿題がとか友達と電話する約束が…と言って逃れる。
家を継ぐ気もない。
まして、この家にいつまでも留まるつもりもなかった。だから必死で勉強した。
逃げるために、生きていくために、なりたいものになるために。
絵も、普通の学習も怠らなかった。
それを知った彼は、偉いといつも褒めてくれる。
今まで、叔父さんにしか褒められたことのない私は、その一つ一つの褒め言葉が、すごく嬉しかった。
夏休みが始まった日。彼に聞かれた。
「弓道やってみたいなとか思ったりしない?」
その問いに私は絵を描きながら答える。
「そうだね。颯斗が教えてくれるならやりたいかも…」
その返答に彼は「そっか…」とだけ答えた。
次の日。彼は
「気分転換に弓道でもしない?僕教えるよ?」
と言い、弓道を教えてくれた。
教えて欲しかったわけじゃない。だけど、彼は何かあったときに役に立つと言っていた。
いつ役に立つのか分からない。ただ、彼の言うことは間違っていないように感じる。
だから、私は彼に弓を教わった。
弓は彼のお下がりだったけど、それでも良かった。弓道は難しい。
ただ、彼は基本を教え終わったら何も教えてくれなくなった。
教えられることがなくなったのだろう。
それでも、彼は私にずっと言っていたことがある。
「心が静かになったら当たるようになるよ」
最初、彼が言い続けるこの言葉に納得ができていなかった。
ふわふわと宙に浮いているようなアドバイスを理解することは難しい。
ただある時、彼の言っているこの言葉の意味がわかった。
何かを考えて射をすると、必ずと言っていいほど当たらない。
それと対照的に、彼の真似をするように射をすると中った。
そこで私はやっと気づく。
「的に中ろう」だとか「この動作をしないといけない」そんなことを考えると矢がぶれるのだと。
颯斗の射は行為ではなく自然な動き。
少しの差しかなくても、意識だけで颯斗と私のように大きな差が出る。
そう気づいてからは早かった。
颯斗に弓道を教わり始めたばかりの頃。
彼は、私に射法八節を丁寧に教え込んでくれた。
夏休みの三分の一。もしくは、半分はやったんじゃないかと思うくらい毎日射法八節をやる。
午前中は、射法八節。午後は、彼の射を絵にした。
だからだろうか。体に射法八節が染み付いていた。
家の中を歩く時、無意識に摺り足で歩く。姿勢を正して歩くようになる。
そんな些細なことを考えずにやれていた。
私が彼の言葉の意味を知ってから最初に射った矢。
その射は、今までの颯斗の真似とは違う辿々しさのある私だけの射だった。
その出来事以降。今までとは比べ物にならない速度で上達していく私に、颯斗は
「いい射だね。今までとは違う“八雲だけ“の射だ。すごく綺麗だよ。
そうやって君はいつか、僕のことも追い抜くのかな?」
なんて冗談まじりに言う。
そう言う颯斗の目が悲しそうに見えて、私は咄嗟に
「一生無理だと思う、だって颯斗はすごく上手だもん。超えられないよ」
なんて口走った。
きっと、私にとって颯斗が必要なくなったら颯斗はいなくなる。
そう感じて私は引き止めるように言ってしまった。
彼は「頑張ればきっと超えられるよ」と呑気に言っていた。
でも、私は超えたくない。
超えてしまったら、彼に教えてもらえない。
それに彼を忘れてしまいそうだから。
これからは少し手を抜いて射ろう。きっと彼は気付くのだろうけど…
それでも、私は手を抜くのをやめない。そうしてでも彼に縋り付いていたかったから。
夏休みも終わりに差し掛かった頃。彼は最初会った時と比べて、少しだけやつれていた。
どうしたのかと聞いても、気まずそうに
「少し忙しくてね…」
と答えるだけ。
そんな彼を問い詰めることは私には出来なかった。
何かあったんだろう。問い詰めて余すことなく聞きたい。
だけど、これ以上踏み込むなと言われている。そんな気がして聞けなかった。
段々と終わりに近づく夏休みに悲しみを感じる。
夏休みがこれだけ充実したのは初めてだった。
毎年毎年家のことを手伝わされて、それだけで夏休みは終わる。
私は、今までなんの不信感も抱かずに家の手伝いをしてきた。
ただ、いい子を演じていただけ。それだけだ。
そんな私に現実は辛くも厳しくて、私の願いや願望は叶うこともなく散っていく。
彼もきっとそうなのだろうか?
何か打ち砕かれるようなことがあったのか?
彼のことについて知りたい。
だけど、彼はいつも少し距離をとっていて、分厚い壁の向こうには決して立ち入らせてはくれない。
多分、どれだけ仲良くなっていても変わらないであろうその壁は、一体何を表していたのだろうか。もう分からないことだ。
それから、何もなかったかのように彼と会話をした。
そして、いつものように振る舞う。
彼は私の異変に気づいていたのだろうか。
できることならば、気づいていないで欲しかった。
夏休みが終わって始業式があった日。
初めて彼から連絡が来た。颯斗から電話なんて珍しい。
そう思い電話に出ると、電話の先は知らない女の人だった。
「もしもし、紅河八雲さんですか?庭月颯斗の母ですが。
突然のご連絡ごめんなさいね…颯斗からたくさん、あなたの話は聞いていたわ。
生前はうちの息子がお世話になりました。今日、〇〇町の…」
それからの会話は覚えていない。
彼ともう話せないこと、会えないこと。
それを実感して、この世から色がなくなったように感じた。
颯斗はもうこの世にいない。
私は全力で走る。
颯斗に会わなきゃ、颯斗が死ぬわけないよ。
だってあんなに元気そうだったのに。
まだ時間もたくさんあるのに…
葬儀場に着くのは、もう空が暗く染まった時だった。
葬儀場に人はあまり居ない。二十人いるかどうかくらいだ。
私は彼の元に走った。早く会わないといけないから。
彼は棺の中で眠っている。
その姿はとても綺麗だった。彼の死因は病死。
元々、体が弱かったそう。私に会った頃には、余命宣告を受けていたらしい。
何で私には言ってくれなかったんだろう。
そう疑問が浮かび上がる。
きっと相談されてたらなにかできていた。少しでも時間を大切に彼と過ごせていたはずだ。
なのに、彼は何も教えてくれなかった。
なぜ私に教えてくれなかったのか、なぜずっと私に嘘をついていたのか。
そんなことを聞いても多分あやふやに返してきてただろう。
「言わなくてごめんね、言えなかったんだ」
そう言うに決まっている。
言ってくれないことがどれだけ辛くて。
何もできずに無力に失う辛さも彼は知らないのだろう。
何かできたんじゃないかって後悔する。
きっと、どうにもならなくて。
この運命を受け入れるしかなくても、私はなにか行動をしていただろう。
そんな並行世界の話をしたって、意味ないことくらい分かっている。
だけど、そんな事を考えないと息が詰まってしまうくらい辛いんだ。
颯斗が私に教えてくれたように、きっと今も深呼吸をするべき。
だけど、もう深呼吸なんてしたくなかった。
「ほら、落ち着いて深呼吸」
そう言う彼の姿が脳裏に浮かぶ。
無理だよ…もう安心して深呼吸なんてできないよ。
そう頭の中にいる彼に伝える。
だから戻ってきてよ。そう彼に言ったって、もう戻ってこれない場所にいる。
そう落ち込んでいた時、彼の母親が話しかけてくれた。
颯斗の病名や最後に言っていた言葉。たくさん話してくれる。
私は気を使わせてしまったと申し訳なくなった。
少しだけ沈黙の時間があった後、彼の母親は話し始める。
「息子を、颯斗を元気づけてくれてありがとう。
あなたと出会った日の前日に、あの子は余命宣告をされたの。
絶望そのものという顔をした颯斗に、私達は何もできなかった。
次の日、気分転換にあの子は弓道場に行ったの。
そこで出会ったのよね?その日、あの子は変わったわ。
絶望から希望へと表情が変わっていった。
私達は何もできなかったの。でも、あなたはあの子に生きることへの希望を与えてくれた。
本当にありがとう。あの子の心を救ってくれて」
その話を聞いて、私はポロポロと涙が漏れた。
嬉しい。彼に恩返しができていて、良かった。
そう心から思う。だけど、それと同時に心が締め付けられた。
なんで彼がこんな事になったのか。彼じゃなくてはいけなかったなんてことはない。
だって、あんなに優しくて綺麗で何より弓道を愛していた彼。
そんな彼が、こんなひどい現実に苦しめられなくちゃいけなかったのか。
彼がなんで死ななくちゃいけないんだろう。彼を返してください神様。
そう私は願う。それはもう叶わない願いだ。
彼の葬式は、彼が最も嫌っていた曇りの日に行われた。
あの弓道場から一番遠い葬式場で行うことになったのだ。
私は、彼の両親にお願いをする。
「彼と一緒に最後にあの弓道場に行きたいんです。
彼は弓道を愛していたから。
彼に、あの場所で、私の思いを伝えたいんです。どうかお願いします」
彼の両親は
「そうだね、行こうか」
と言って、彼の遺骨を持って弓道場に向かってくれた。
そして、うちの家の神社の前に車は止まる。
彼の両親は言う。
「ここから先は君だけが行ってくれないか?ここは君と息子のための場所だ。
そんな大切な場所に僕たちは足を踏み入れてはならないからね」
そう、私を送り出してくれた。
彼とこの道を歩くのも今日が最後。
夏休みの間は、弓道場までの階段を走って登っていた。
そして、息を切らしながら二人で笑い合って弓道場に入って行く。
そんな毎日が幸せで、そして大好きだった。
弓道場に着く。いつも彼と弓を射った特別な場所。
神聖な場所だからと彼と毎日、練習前に掃除をした。
足袋に履き替えて、弓に弦を張ってから袴に着替える。
たまに弦に反抗されて、弾かれたこともあったっけ?
「痛い」と言う私を見て笑いながら救急箱を取りに行く彼。
その後ろ姿を見ながら「笑わないでよ…もう」と怒ったのをよく覚えている。
私と彼の宝物が詰まった宝箱。
そこで、彼と最後の話をする。
「もう颯斗とは会えなくなるんだね…私はすごく淋しい。
君は寂しくなかったの?言えなくて、相談できなくて。
もう一回だけでいい、颯斗にあって話がしたい。
昨日は『また明日ね』なんて笑顔で言ってたくせに、颯斗に明日はこなかったじゃん…
私だけだよ、明日に進んでしまったのは」
そう少しの怒りを込めて、彼だったものに話しかける。
弓を射るため弓に弦を張り始めた。
彼の弓と私の弓の弦を張る。視界が滲んでよく見えない。
パンッ、そう弦に弾かれた。
「痛い」なんて言っても救急箱を持ってきてくれる人はもういない。
「ねえ、颯斗。私、颯斗のことが好きだったんだ。
颯斗の射が大好きで真似しちゃうくらい好きで。
それと同時にそんな射をする隼人も大好きだった。
大事だったんだよ…なのになんで先に行くかな?」
“結局伝えられなかったじゃん“その言葉は言えなかった。
声が震えてうまく出ない。早くしないと待たせてるのに…
そう心を急かしてもうまく前に進んでくれない。
早くしなきゃ、そう思いながら雨を降らせる。
あぁ、辛いなぁ…
私の雨が止む頃には、すでに三十分も過ぎていた。
雨を止ませて彼に言う。
「私はまだそっちに行く予定ないから、今の内に君に私の射を見せてあげるよ。
いつも手を抜いてたから、私の本気の射見たことないでしょ?
隼人が綺麗って言ってくれたあの射、もっと綺麗になったんじゃないかな?
じゃあ行くよ。最後に君のために矢を射るね。ちゃんと見て」
そして私は矢を射る。
今までにないくらい真剣に、彼に贈る最後の射に相応しい弓道をした。
綺麗なツルネが鳴って風が吹く。
その音は彼からの「ありがとう」に聞こえて私はまた泣いてしまった。
「こちらこそだよ、本当に…」
そして私は彼と少しの間、お別れをする。
夢を叶えるために。
それから10年後。
私は家を継がず、画家になった。
彼と過ごしたあの数ヶ月を絵にして生活している。
私と彼の宝物であるあそこで、今日も絵を描く。
昔と同じ場所で、彼を忘れてしまわないように。
10年前。彼が死んですぐに、私は叔父さんに会いに行った。
叔父さんに絵にかけないほど綺麗なものに出会ったこと、弓道を始めたことを伝える。
そして、彼を書いた何冊ものスケッチブックを渡した。
叔父さんはハッとしたような顔をした後、笑う。
「良い人に出会えてよかったな。
いい絵だ、八雲の思いがよく詰まっている」
そう褒めてくれた。
そして、私が彼を最後に書いた時の絵を見て涙を流す。
「あぁ、八雲はこの子のことが大好きなんだね…」
その言葉に、私は今までにないくらいの満面の笑みで答える。
「うん。ものすごく好き、忘れられないくらい」
そして、叔父さんはこの絵をコンクールに出そう、と言った。
ただ、私にとってこのクロッキー帳は何よりも大切なものだ。
だから、きちんと書き直した。
白黒ではなく、色のついた綺麗な記憶を呼び戻して描く。
出来上がった作品はコンクールでは優秀賞をとり、今ではたくさんの人に愛される作品になった。
世間では名前を言ったら「あぁ、あの人ね」と言われるくらい認知度がある。
それくらい有名になったのだ。
私は今を生きている。彼にもう一度会った時。
彼に怒られてしまわないように、彼に泣き顔を見せなくていいように。
今を一生懸命生きている。きちんと明日を迎えて、昨日を背負って歩く。
「幸せか幸せじゃないかなんて重要じゃなくて、楽しいか楽しくないかが重要。
幸せなんて楽しければ着いてくる」
そう私に教えてくれた彼に、私は自慢気に笑って言ってやるんだ。
「幸せだったよ。君が居ない世界も。
ただ、颯人が居たらいいなって。楽しいだろうなって思って絵を描いてたら楽しくなって、幸せになれた。
だから、私をもっと楽しく。幸せにするために私と一生一緒に居てくれませんか?」
そうプロポーズしてやるんだ。
私の愛した君はもういないけど、それでもいいと思える人生を送ってあげる。
だけど、そっちに行ったときは容赦しないから。
そう思いながら、射法八節の動きを始める。
もう覚束ない、辿々しい射なんかではない。
あの頃の颯斗のような、この世で表せる方法なんてないくらい綺麗な射を今はしている。
颯斗のように目を細めて矢を放つ。
その姿は紛れもなく彼であり、私でもあった。
君に届くように弦音を鳴らす。そして私は願う。
「風吹く頃にまた君と出会いたい」と。
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