ある夜ある町ある家で

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 ここは都内のある百貨店。地下の食品売り場、それもケーキを売っている一角に私はいる。そこで、少し高めのチョコレートケーキを買い、代金を払っているのが私だ。なんせ、このケーキは妻の大好物で、これを買って帰ると、とても喜んでくれる。  今日は、妻と迎える30回目の誕生日だ。大きな病気もなく、大きな危機もなく、子どもたちも無事に大学を出て就職し、二人だけの生活が始まってもう3年がたつ。30年かあ、としみじみ思い返すと、長かったようにも短かったようにも感じられる。大学時代に妻と出会い、就職し、結婚した。結婚式は時代が時代だったので、それなりに大きくやった。式場はたくさん下見をして、二人で決めた。友達をたくさん呼ぼうと言うことになり、私は披露宴の後も二次会三次会とたくさんの友達と夜通し飲んで語り合った。  懐かしい思い出をかみしめながら、家に着くと、買ってきたチョコレートケーキを妻に渡した。妻は「いつものこれ、ほんとおいしいわよね。食事の後に、紅茶を入れて食べましょうよ」といい、笑顔を浮かべた。その夜はとても静かな夜だった。二人だけでこの家にいると、静かさをしみじみ感じることができる。 その夜の食事は豪華だった。食器の音がカチャカチャと響く中で、私は先ほど思い出した、二人の昔について妻と話した。二人で歩いてきた道を、二人でなぞりながら、いろいろなことを懐かしく話した。結婚式のこと、子どもが生まれたときのこと、名前を一緒に考えたこと、幼稚園や小学校にも行事があると顔を出した。運動会などでは、妻はいつも大きなお弁当箱にたくさんの料理を詰めてくれた。サンドイッチや唐揚げやポテトサラダに卵焼き、特にタマゴサンドは素朴な味だが、食べ始めると止まらなかった。妻は私の好みをよく知っていた。いつの間にか子どもは大きくなって、中学高校と成長していった。一人前に反抗期などを迎えて、長男などは道を一度踏み外しかけたこともあった。私は彼を連れて夜の公園で話し合った。根気よく、しかしさすがに語気を強めることも交えながら、語り合った。そのことは妻は初めて知ったようで、えらく感謝してくれた。無事に大学へ入ると、長男は下宿になり、長女だけが残った。長女はオープンな性格だったので、彼氏ができるとよく家にも連れてきた。私はその度に、相手とたくさん話し、できるだけ彼氏のことを理解しようとした。おかげで私の見る目は肥え、彼氏が帰った後に妻にその人物評を伝えると、大体いつも妻と同意見だった。もちろんその意見は二人の秘密で、あの彼氏と結婚したらどんな家庭になるんだろうか、などと妻と勝手に予想して楽しんだ。就職で長女もいよいよ家を出たが、まだ誰とも結婚はしていない。次に連れてくる人は、いよいよ最後になるのだろうか。  二人の生活が始まると、旅行にもよく出かけた。行き先は、私が会社帰りに駅でとってくるパンフレットなどから、二人で決めた。海外の雄大な景色を見たくなって、カナダのロッキーへ訪れたときなどは、パンフレットをとった次の週には出かけていた。紅葉とトレッキングはヘトヘトになったが、心の底から洗われた。まだ三年、これから何をしようか、二人でしたいこと、いきたいところもたくさんある。いま、まだ健康なうちにたくさんの思い出を妻と二人で作りたい。  止めどなくあふれてくる思い出話が、少しずつ今の話に移り、そうして、未来の話へ移ろうとしていた。私も妻も食事を終えていたので、妻は「そろそろケーキを切るわね。紅茶は何も入れないでよかった?」と席を立った。私は「そうだね」と短く返事をした。話がいったん途切れたので、また部屋の中には静寂が戻った。  「こんな静かな夜は、かえって強盗でも入るんじゃないかと不気味だよ」と私は冗談を言った。「よしてよ、縁起でもない」と妻はケーキと皿とナイフとフォークを用意しながら返した。「静かすぎたら強盗の足音もかえって目立つか」と私は独り言のようにつぶやいた。「そうね」聞いているのかいないのか、妻は帰して続けた。「足音は出さないわ、気配も消すの。まるで自分の意思も存在もなかったかのように自分を殺して。目的を達するその瞬間だけ、内に秘めたエネルギーを爆発させるんだわ」私には彼女が何のことを言っているのかよくわからなかったが、彼女は手に持ったナイフで私を刺した。「私はあなたのためにたくさんの自分を殺しすぎたの、時間泥棒さん…」その声と妻の不敵な笑みだけが、私の最後の記憶となった。
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