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「初恋泥棒はこわいわ。いつ現れるかわからないもの」
常々、マダムはそう私に言い聞かせていた。
今日も変わらず、私に会って三言目にはその話だから、私は思わずあくびをしてしまったけれど、マダムもいつも通りの話を続ける。
あなたの瞳は今日も美しいわ、なんて言ってくれるからマダムの手のひらに頭を預けた。
ああ、やはりあなたの手は温かくて気持ちいい。けれども私がすきなのはてのひらだけ、お小言の長い口はきらいなの。
私に丁寧にリボンを結びながら、マダムは話す。
「ドリーはね、それはそれは、素敵なひとだったの」
「あらそうなの」
「ええ、だからね、私。一生懸命お給仕の勉強も、裁縫も、いろいろとやったのだけれど」
「……なかなかうまくはいかなかった」
「ええ……そう。そうなのよ。私頑張ったのだけれど、こうしてリボンを結ぶくらいしかできなくてね」
そんなことはない。マダムはきちんとお料理も作れる。さっきまで食べていたおいしいお料理も、マダムが毎日作ってくれている。ちょっと見てくれが悪い、は互いの共通認識ではあるが。
私のお布団だって、いつもふかふかにしてくれるのはマダムだ。
だけどマダムは、私の首を触って、言う。
「今の旦那様……見た目はドリーにちょっとだけ似ているけれど、旦那様の方がよっぽど料理が上手なのよ。ドリーはてんで、家事全般がだめだったもの」
「あなたも大概よ、マダム。お掃除は得意のようだけれど」
「ふふ、今日も素敵よ。レディ」
「……ありがとう、マダム」
「星降りが悪いの、今日の夜は気をつけて」
「分かっているわ、ありがとう」
とん、と立ち上がって、一回転。うつくしいわ、を歓声のかわりに、私はマダムの部屋を出た。
それにしても、初恋泥棒だなんて。そんなもの夢幻じゃない。だいたい、初恋なんて目に見えないもの、誰が盗れるというの。
わたしは信じないわ。
そう思って、私は二階のバルコニーに出た。ふわりと風がそよぐ時期、日向の明るさが心地良いのはもちろんだが、夜たくさんの星が輝く世界、ひやりとした空気を感じるのも、私はとても好き。
マダムは過保護だから、こうして私ひとりの時間も、持てるようで持てないのが難点だわ、なんて思っていた。
暗い影が、私を覆って、いた。
「やあ素敵なレディ」
だから、誰かがそこにいるなんて、思いもしなかった。
すこし高い声。
私は思わず縁に動いて振り返る。けれどそこにはだれもいない。
「……へ?」
「ちょっと、失礼するよ」
瞬間、私の手足はふわりと空へ飛び立った。
「え、」
「寒くてごめんね、本当にすぐ、すぐだから」
そうして私の真っ黒なドレスは空と同化する。おかしい。手足の感覚が、耳が、肌が、おかしいの!
「ちょ、っと……! なに、なんなの! 離して!」
「すぐにマダムのところには返してあげるから、お静かにね、レディ?」
まるで自分の瞳の様な薄い色。
ゆっくりと地面に下ろされた私は、まず最初に体の状態を確かめた。大丈夫。肌がぞわぞわしているけれど、なんにもない。
私はあなたの瞳を唯一肉眼でみることができた女なのかしら。
それとも他の子たちもこの人のことを?
マダムが着けてくれた、かわいい装飾のついたリボンが外される。
するりと抜かれた宝石は、多分マダムが私の瞳の色に似ている、って言っていたトパーズ。
……いいえ、違う。トパーズ色のガラス玉だわ。
ホンモノは、確か。そう思いながら私は彼に話しかける。
「あなたと一緒にいたいのだけれど」
「それはできないなあ」
「どうして」
「端的に言って危険だ」
「私は人間ほどヤワじゃないわ」
「知っているとも」
「知っている?」
思わず首をかしげる。いままで彼らと出会ったことが、あったのかしら。
お外をぐるぐる飛び回るような、そんなひとたちと。
「ああ、だから、困ったときは空を見上げてくれればいい」
ぼくらはみんな、空の旅人だからね。君のしらないところで、僕らは
「さようなら、素敵なレディ。今はそれ以上は聞かないよ……」
そう言って、彼はつんとかたくてとがった唇を、私に添えた。
私はそれをぺろりと舐める。
そう。仕方がないわね。私はレディだもの。
首輪がなくったって、私はマダムの子なのだから。
「いつかあなたの名前も聞かせてね」
「ああ、またいつか、この近くに来たときには」
ゆったりと下ろされた木は、ちょうどマダムのおうちの一番高い木だった。マダムの声がする。
私、いかなきゃ。
「さようなら怪盗さん」
「さようなら、麗しきレディ」
「……さようなら」
ばさりばさり。
大きな音を立てて彼は飛び去っていった。私はマダムの方へ降りていかなければならない。そうわかっているのに、空を見つめていた。
青い空。白い雲。そうして彼の黒い影。
「レディ、どこ! どこなの!」
「私はここよ! いま行くわ!」
マダムの予感は合っていた。私、今日に限ってあのレプリカを着けていたのだもの。
でも、おかげで私は彼に出会えた。そわそわする。足下がおぼつかないのは、さきほどまで違う地面のうえにいたから? それとも心を掴まれてしまったから?
ああでも。いけないマダム。
私も出会ってしまったじゃない。
明日、いいえ今からちゃんとマダムに言うわ。
あの大きな翼と同じ色の瞳。あなたがくれたリボンごと、私の心は奪われてしまったのだって!
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