誇り高き者の不都合な真実

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 連峰に八重囲まれる氷山の特別区に無数の尖塔が建っている。そのうちの一塔から観音権化と名高い尼僧を盗みだした。 「そなたは八洲(やしま)に知らぬ者なき天下無双の鬼畜生,獄卒業平(ごくそつなりひら)殿ではござりませぬか――」尼僧は,衛士たちの返り血を浴びた俺の体にとりすがり死を請うた。「生き恥をさらしたくはないのです。後生でござりますから,どうぞ,その手で――」  尼僧を蹴倒した。「ふはははぁ,それこそが俺の望みだ! 観音権化と崇められた貴様が盗人風情に奪われた――そう衆人は好奇と憐憫の眼差しをむけるだろう。誰もかつてのように崇拝や畏敬の念を捧げることはないのだ。俺は貴様から純潔も尊厳も信念も盗んだ。貴様を信仰する万人の発心も帰依心も欣求浄土をも盗んだのだ!」  俺は一頻り捧腹絶倒してから,灰燼のごとく土間にうずくまる尼僧の髪をひきよせ,涙にとけいりそうな面に説きふせた。「ゆめゆめ自害など思うでないぞ。生きるのだ。貴様が生きてこそ俺の悪名は巷を馳せるのだ。浅ましき気を起こしたら貴様の密事を暴露してやるからな――」そうなれば朝廷の転覆は必至だ。  尼僧は時の帝の第一皇子だった。皇子は仏門の師に恋いこがれ,素性を隠し,尼寺に内々に身を埋めたという。有力貴族に苛まれ政のままならぬ帝にとって皇子の不祥事は命とりとなるに相違ない。  俺は朝まだき羅城門へとむかった。鬼に逢うためだ。  童であったころ陰陽師により社に封じこめられた奴を盗みだし救ってやった。謝礼として俺は透身の術と飛翔の術を授けてもらったが,こうも言われた――生類に憐れみをかけたりすれば術を返しにこいと。さもなくば俺の素性を天下に吹聴すると脅かすのだった。  帝の第一皇子を殺めなかったのは己のためだ。大盗人としての誉れを世に轟かせんと欲するがゆえだ。……しかし命を()らなかったという事実は事実だ。約束を反故にしたとなれば真実が露呈してしまう。すなわち盗人としての境涯を失することを意味する。それは死だ。生きていないに等しい。本国へ連れもどされてたまるものか!  瓦屋根の鵄尾が膨張しつつ大型の猫を想わせる形状を闇に浮き彫りとさせた。鯰の腹のように生光りする顔面の左右には菱形の巨大耳が悠然たる羽ばたきをなしながら,額部から密に生える触手じみた億万の角が伸縮を繰りかえし迫ってくる。 「久しいのう――中華王の第一姫君よ」
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