風味を盗む

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俺はメニューをテーブルに置き、女の方に運ばれた皿をじっと見つめてから目を閉じた。鼻から入り込んでくる匂いが、女の前に置かれた、美味しそうな牛すじ煮込みの姿をまぶたの裏に鮮明に描きだしてくれる。 俺はさらに意識を集中した。すると舌の上で、じっくり煮込まれた肉の旨味と野菜の甘みが、赤ワイン風味のソースが奏でる音楽に乗ってワルツを踊り始めた。 ああ、何と素晴らしい味の舞踏会か。こんな素晴らしい味を注文せずとも堪能できてしまうのだから、コックの腕前はさることながら、俺は自分で自分の能力に惚れ惚れとした。 そう、これこそ俺の能力――食事の風味を盗む力だ。隣の席などごく近い範囲の料理を強くイメージすることで、その食事の風味を味わうことができる。 彼女と別れてすぐの時期、ひとりで食事をしているときに、ふと頼んでいない料理の風味を感じたことがあった。始めのうちは料理の味を錯覚したのだと思ったが、やがて隣の席の客の食事の風味を感じているのだと気がついた。そして、席が離れていると風味を感じられないことも分かってきた。 今ではあちこちの店でさまざまな料理の味を楽しんでいる。注文できなかったり満腹で食べられなかったりした料理も味わえるのでなかなか便利である。 無銭飲食じゃないかと非難の声が上がるかもしれないが、失礼な話だ。風味を頂戴しただけで何の罪に問おうというのか。 この能力はあくまで風味を盗むだけだから、腹にたまらないし栄養も摂取できない。空腹のときに使ってもかえって食欲を増進するばかりで何の腹の足しにもならない。 それに、きちんと普通の食事もしてお代は払っている。違法行為ではないのである。
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