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4
四月になり、わたしと篠田はそれぞれの道へ進んだ。
多くの友人が短大や大学で青春を謳歌する中、わたしはひたすら野菜を刻んだり、肉を処理したり、スープをとったりと、常に汗だくだった。
専門学校の友だちの中には、それでも無香料のお化粧品でかわいらしくしている人もいたけれど、わたしはもとがあっさりした性質だったこともあり、高校の延長線上な顔&スタイル。つまりが、長い髪は一つに結んで顔はすっぴん。リュックを背負い、服装はジーンズにシャツだった。
コンビニで、アルバイトも始めた。
忙しくも充実した毎日だった。
そんなある日の帰り道、わたしはふと空を見上げた。
すると、わたしの視界一杯に、茜色した夕暮れが広がっていたのだ。
両手を広げても足りないほどのその空を、わたしは声もなく、ただただ仰ぎ見た。そして、なにかに突き動かされたようにリュックから携帯を取り出すと、空を撮影した。料理ばかりのフォルダに、初めて空が加わった。
小さな画面の小さな空だったけれど、目の前の空の一部を切り取ったかのようにうまく撮れていた。
篠田にもこの写真を見せたい。
彼にわたしが撮った茜空を見て欲しかった。
それに、写真を送ることで、携帯電話を使いこなせていると伝えられるとも思った。
困ったのが文章だ。
わたしは、篠田に綴る言葉が見つからなかったのだ。
「こんにちは」や「こんばんは」といった挨拶の言葉さえ、偽りであるように感じられてしまったのだ。
悩んだ挙句、わたしは写真だけを送ることにした。無作法だと思いつつ、でも篠田ならきっと怒らないだろうなといった妙な確信があった。
送信済みのマークにほっとし、携帯をしまおうとした瞬間、滅多に鳴らない着信音が響いた。
慌てて開くと、篠田からだった。
篠田もメールの本文はなく、添付された写真のみだった。
「うわっ、かわいい」
そこには、まるまるとした笑顔の赤ちゃんがいた。そういえば、篠田家のご長男には赤ちゃんが生まれたと聞いていた。
篠田、おじちゃんか。
携帯をしまいながら、一人でにやにやと笑ってしまった。
それ以来、本文なしの写真のみのメールを、ぽつぽつと篠田と交わすようになった。
わたしは食べ物が多く、篠田は景色が多かった。
篠田の写真を見て「この場所はどこなんだろう」と思うときもあったけれど、お互い写真だけのやりとりだったので正解は分からないまま、自分勝手にあれこれと推測した。
気になるのなら尋ねればよかったんだろうけど、そうすることで――文字を使うことで、なにかが全て台無しになってしまうような、そんな気がしてできなかったのだ。
そうこうするうちに、月日は流れ。
わたしはいよいよ、父の洋食屋で働くことになった。接客と洗い物担当からのスタートだ。
その前日、父からピッと糊のきいた制服を渡された。
それを手にしたとき、自分でも驚くほどの高揚感があった。
こんなにも、この店で働きたいと思っていたのだ。
自分の心が求める場所に居られる喜びから、わたしは店の制服の写真を撮り、そしていつものように篠田に送った。
篠田からは、スーツの写真が届いた。
就職活動開始なのか、それとも既に内定ってもんが出たのか。普通の大学生活にうといわたしにはわからなかったが、ともかくその写真を見て、篠田もそろそろ社会人になるんだなぁと思った。
――あれっ、篠田だ。
近くの書店を覗いたら、スーツ姿の彼がいた。
メールでのやりとりはあるものの、生身の篠田を見るのは久しぶりだ。ご近所とはいえ、活動時間が違うと会うこともない。
篠田はスーツが似合っていた。
うちの店に来るサラリーマンさんたちみたいだと思った。
声でもかけようかと一歩踏み出したそのとき、篠田の隣に立っていた女性が篠田の肩をたたいた。彼女が何か言うと、篠田もそれに応えていた。
彼女も、スーツを着ていた。
わたしは、ジーンズだ。
まぁ、いいや、と思って、わたしはその場を立ち去った。
まぁ、いいや、と思ったはずなのに、心の中はざわざわとしていた。
そして、またまた月日は流れ。
父から、ようやく野菜の下準備を頼まれるようになった。野菜を洗ったり、皮をむいたり、切ったり。
そして、サラダはわたしの担当となった。
練習のため、店に出すサラダと同じものを閉店後に作った。そして、写真を篠田に送った。
篠田からは、会社の名刺の写真が送られてきた。
篠田もがんばっている。
わたしだって負けられない。
そう思うと、力がわいてきた。
それからしばらくした、ある日のこと。
篠田からメールがきた。
パスポートの写真が添付されていた。
それを見たわたしは、篠田が仕事で海外に出るのだとわかった。
そんなことは一言も書いていなかったけど、そういうことなんだろうと。
わたしは、初めて携帯から篠田に電話をかけた。
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