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11月10日
改まって話し掛けられると、身構えてしまう。失礼なことしたかな。会議の資料、間違ってたのかな。
「花尾さん、香水つけてる?」
「はっ」
同僚に肩を叩かれる。背中は好奇心というより野次馬精神に溢れていて、楽しそうだ。
「ごめん。セクハラのつもりはなくって」
「もっ、もちろん」
掘られる側としては、そっとしておいてくれと思うのだけど。
「資料もらったとき、レモンみたいな柑橘系の匂いがした、気がしたから」
レモンという単語にはじけたのは、水彩画で描かれた瑞々しい実だ。
「それ、多分ハンドクリームです。ここ数日使ってると鼻が慣れちゃって。キツいですか?」
「まさか。珍しいなと思って。いいと思うよ、すごく」
「ありがとうございます」
褒め言葉は、素直に受け取っておく。
「ったって、頂き物なんですけど」
「やる」と突き出された紙袋の中に入っていた。名作アニメの少年を思い出したが、相手も私も立派な大人だ。
「へえ。その人、花尾さんのことよく見てるんだね」
「そう...ですかね」
受け取った紙袋は、ずしりと重量感があった。練り香水にハンカチが詰め込まれた、土産袋。
「何買うていいかわからん」とぶっきらぼうに言われたが、私は何もねだってなどいない。「勝手なこと言わないで」と応戦したが、心はじんわりと温かかった。
「それ、男の人?」
「えっ」
まあ、生物学上は。
笑ってくれると思ったのに、冷たい床に言葉が落ちるだけだった。
ふたりきりの会議室。急に広く、閉鎖的になった。
「付き合ってるの?」
「そんなんじゃないですよ!父の、部下の人で」
だから、わかったんだ。この時期、家事を担う私の手が荒れることを。
もしかしたら、働きづめの父のおかげで、私が旅行経験に乏しいことも。
第一印象は厳つくても、根は優しい人だから。
「お父さん、何されてるの?」
「工場を。小さいんですけど、ほんとに」
「ああ、それで」
それで? さっぱりわからない。
「その人、花尾さんのことが好きなんだよ」
作業着の背中。揃えられた手袋。すっかり見慣れたドレッドヘア。
「まさか!」
明るく努めた声も、急激に温度を失っていく。
それほどに。
「俺は」
冷えているのだ。この部屋が。もうすぐ、冬がやってくる。
「あかりさんが好きだよ」
頭が重い。心臓が疲れで痺れている。だから、呼びかけられても体が動かない。
押し寄せてくるものを堪えたくて、鼻をつまんだ。
襲ってきたレモンの香に、なぜか泣きたくなった。
ハンドクリームの日
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