11月17日

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11月17日

大学の友人に「ケッコーオススメ」された商店街は、すっかり彼の生活の一部になった。食費は抑えられるし、本屋の品揃えもいい。 何より、スポーツ用品店で競技用自転車のメンテナンスを請け負ってくれるのはありがたい。 「こんにちはー」 「おお、いらっしゃい」 頭にタオルを巻いた男性が、野球用グローブの棚の間から顔を出した。愛車と共に奥へ進むが、右も左も野球用具ばかりだ。 無理もない。道具の多いスポーツだし、近くにある高校も大学も名門校と言われている。 店内を見渡して目を輝かせられる程には、彼は野球に憧れていた。出身は関西。聖地と呼ばれる球場に足を運んで、プロの試合も高校生の試合も見たことがある。あの歓声と熱狂。観客席に座っているだけで、ひりひりした。 でも、彼が選手として出会ったのは、野球ではなく自転車だった。たった、それだけ。 (それだけ、やんなあ) 触れた金属バットのグリップの冷たさに、苦笑した。 「ただいまあ」 「グローブの森」から姿を現したのは、制服姿の高校生だった。この店の娘だ。全力で走ってきたのか、息は荒く、前髪が湿っている。 「おう、お帰り」 作業中の兄が答える。彼が実家に戻ってきてから、自転車のメンテナンスを店で請け負うようになったそうだ。 そう言えば、今日は店主の顔をまだ見ていない。店の8割を野球用具にした、張本人だ。 「お前、補習は」 「サボった!今日はサボるに決まってるでしょ!」 兄は手元に集中しているので、目は一切合っていない。喧嘩腰でも、傍観者のひとりっ子は兄妹の会話に感動してしまう。 「うちは浪人を認めてないからな」 「わかってる!今日だけだって、父さんの許可ももらったんだから、兄ちゃんは黙ってて!」 「はいはい、そうかよ」 不機嫌ながら、客にはしっかり一礼をくれた。 (制服姿は初めて見たな。美人系?やんな) 愛車を調節する手から目を離して、居住まいを正す。背筋を伸ばして見えたのは、壁に貼られた新聞記事だ。 (高校野球、ドラフト...?) 「んなことしたって、向こうは何も思わないのにな」 「えっ?」 「『ここ、お前ん()だったんだ』って、来る度言われてたくせに」 意味を掴む前に、衝撃が来た。キャアともワアともつかない、歓声。思わず、耳を塞いだ。 「兄ちゃん、福岡、福岡だって!しかも1位!ヤバくない!?」 賑やかな足音そのままに、ローファーのかかとを履きつぶしたまま、店を飛び出した。シワシワのブラウスが、肌寒そうだ。 「おうおう、そうかよ」 表情は変わらないが、答える声はどこか嬉しそうだ。 「おーい、会見だぞー」 階上から聞こえるは、店主の声だ。興奮しているせいか、いつもより大きい。 右腕をさする。脳がまだ、衝撃で揺れている心地がした。 (ああ、ひりひりする。) ドラフト記念日
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