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11月19日
お気に入りのワンピース。新品のスニーカーに泥がついたのはいただけないけど、背筋を伸ばして歩くだけで気分はオフィス・レディだ。
スーツ姿の大人の間を縫って、エレベーターに乗り込む。「何階?」と尋ねてくれた親切なお姉さんには、「5階です」とすまして答える。本当に?という様子で見られたけれど、脇に抱えたワークで納得してくれたらしい。
よかった。社会のワークも持っておいて。
「松尾先生のお部屋はこちらです」
案内のお姉さんが言うとおり、ドア横のプレートには「松尾豊」と書かれている。
「ありがとうございます」
小学生がひとりで法律事務所にきたせいか、いちばんの難関はこの人だった。
何度先生の許可を取っていると伝えても取り合ってくれず、挙げ句の果てに先生本人に確認の電話を入れたのだ。手間なことこの上ない。
とはいえ、私も枝野小学校の児童会長だ。学校を代表している以上、恥ずかしい姿は見せられない。
3回ノックをすると、「どうぞ」と柔らかな男性の声が返ってきた。
「失礼します」
背中で、ドアが音を立てずに閉まった。
「すごっ」
広い部屋と、大きな机。デスクの奥は一面ガラス張りで、町を見渡せる。もっと偉くなればもっと上の階に行けるのよとアヤミちゃんが言ってたけど、じゅうぶんすごい。だって、弁護士先生だもの。
「れいなちゃんごめんね。受付の人には話しておいたんだけど、シフトが変わっちゃってたのね」
ミルクティーとショートケーキを出してくれたのが、従姉のアヤミちゃんだ。法律の勉強をしながら、松尾先生のお手伝いをしている。
ふかふかのクッションで機嫌を直した私は、さっそく理科ワークを取り出した。お楽しみは、後に置いておくに限る。
「わあ、真面目だね。さすが一ノ瀬さんの従妹」
「茶化さないでください。先生は、コーヒーと?」
「コーヒーだけでいいよ」
先生は、机の端にあったガムのボトルを開けた。
「ガム、苦手?」
苦手だ。特にミント味は、口の中が辛くなるのが許せない。
「気にしないでね。人に会う仕事だし、食べ過ぎると体が大変な事になるって奥さんが」
お腹をつまんだ左手には、指輪が光っていた。
「それで?話っていうのは?」
「今、理科で天気を習っていて」
法律の話じゃないから、アヤミちゃんに教えてもらうこともできた。
「弁護士さんが助かる天気と、困る天気ってありますか?」
「そうだなあ」
でも、先生がおいでと言ってくれたのだ。会ったこともない、小学生の私に。
「お客さんの来づらい雨の日は気を遣うかな。床も濡れるし、清掃の人は大変そうだね」
鉛筆を走らせる。しゃらしゃらと音を立てる飾りは、シャーペンみたいでカッコいい。
「裁判の判決が出るときは、あんまり降って欲しくないかな。走って行くとびしょ濡れになるから」
「先生、よく走らされますもんね」
「まだ若手だからね。この世界だと」
アヤミちゃんが隣に座ると、お化粧の香りがした。
「ありがとうございます」
「ごめんね。大した話じゃなくて」
「いえいえ」
弁護士本人から聞けたというのは、発表の時に自慢できる。
ほんとうにありがとうございます、だ。
フォークを入れたケーキのしっとり具合に、また感動した。
「アヤミちゃんもそんな感じなの?」
「まあね。でも、雨の日も素敵よ?大きい傘を差せるし、雨宿りもできるもの」
来たよ、アヤミちゃんのロマンチスト。
「そういう話じゃないんだってば」
ねえ、先生。
しかめっ面の先生と、ご機嫌のアヤミちゃん、よくわかっていない私。
冷めたミルクティー、入れ直してもらおうかな。
いい息の日
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