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11月26日
「サインください!」
憧れで輝く瞳は、いつ見ても気分を上げてくれる。
「いいよ」
色紙を受け取って、サインペンを走らせる。慣れた動きだ。
「あれ?」
何度ペンを往復させても、インクが紙にのらない。乾いた音が、虚しく繰り返されるだけだ。
「どうぞ」
差し出されたサインペンで、かすれた線をなぞる。今度は大丈夫そうだ。
「頑張ってね」
右脚に痛々しく巻かれた包帯を見て、心から思った。
「ありがとうございます!」
母親に支えられながら、足を引きずって診察に向かう。
ゆっくり、息を吐いた。
「助かったよ」
受付のカウンターに、サインペンを返す。
地元に根ざした、スポーツ医院。学生の頃から、お世話になってきた。プロになって国を離れてからも、帰省の度にケアをお願いしている。
「あらそう」
目を合わせることなく、電卓を打つ。ストーンが光る爪に、視線を逸らした。
「――円になります」
平日の朝。待合室にいるのは、自分達だけ。半時間後の診察開始時刻には、お年寄りが増えてくるだろう。
「はい」
何てことない、病院の会計。気まずさなんて、どこにも。
「2300円のお釣りです」
あって当然だ。
「なあ」
ただ、じっと作業台を眺めている。
「今回の滞在、長いからさ。メシでも行かね?」
高校の同級生。選手とマネージャー。甘酸っぱい思いでも、苦いだけの記憶も、いくらでもある。
長い睫毛に縁取られた瞳と、初めてぶつかる。眉間に寄った皺と、歪んだピンクの唇。
「それ、本気で言ってる?」
そこまで...嫌がるか。
「いや?冗談」
「でしょうね」
緊張が張り詰めたのはこれだけで、帰り際には左手を振り合った。お互いに、違う形の輝きを纏っている。
妙に、胸がチクチクと痛んだ。
とっくに薄くなった、青春の苦味。初恋の失恋なんて、特別な話でもないのだけれど。
ペンの日
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