11月26日

1/1
前へ
/30ページ
次へ

11月26日

「サインください!」 憧れで輝く瞳は、いつ見ても気分を上げてくれる。 「いいよ」 色紙を受け取って、サインペンを走らせる。慣れた動きだ。 「あれ?」 何度ペンを往復させても、インクが紙にのらない。乾いた音が、虚しく繰り返されるだけだ。 「どうぞ」 差し出されたサインペンで、かすれた線をなぞる。今度は大丈夫そうだ。 「頑張ってね」 右脚に痛々しく巻かれた包帯を見て、心から思った。 「ありがとうございます!」 母親に支えられながら、足を引きずって診察に向かう。 ゆっくり、息を吐いた。 「助かったよ」 受付のカウンターに、サインペンを返す。 地元に根ざした、スポーツ医院。学生の頃から、お世話になってきた。プロになって国を離れてからも、帰省の度にケアをお願いしている。 「あらそう」 目を合わせることなく、電卓を打つ。ストーンが光る爪に、視線を逸らした。 「――円になります」 平日の朝。待合室にいるのは、自分達だけ。半時間後の診察開始時刻には、お年寄りが増えてくるだろう。 「はい」 何てことない、病院の会計。気まずさなんて、どこにも。 「2300円のお釣りです」 あって当然だ。 「なあ」 ただ、じっと作業台を眺めている。 「今回の滞在、長いからさ。メシでも行かね?」 高校の同級生。選手とマネージャー。甘酸っぱい思いでも、苦いだけの記憶も、いくらでもある。 長い睫毛に縁取られた瞳と、初めてぶつかる。眉間に寄った皺と、歪んだピンクの唇。 「それ、本気で言ってる?」 そこまで...嫌がるか。 「いや?冗談」 「でしょうね」 緊張が張り詰めたのはこれだけで、帰り際には左手を振り合った。お互いに、違う形の輝きを纏っている。 妙に、胸がチクチクと痛んだ。 とっくに薄くなった、青春の苦味。初恋の失恋なんて、特別な話でもないのだけれど。 ペンの日
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加