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11月8日
踏み台。足場。陰でそう呼ばれていることくらい、知っている。
資産家である父の遺産を相続するためには、ひとり娘である私に近づくのが、早くて確実。
県一の高さを誇るホテルビルから臨む夜景は、「見下ろす」感覚がたまらないらしい。
高所恐怖症の私は、好きになれそうもないけれど。
パックを剥がすと、磨き上げられた肌が光を纏っている。
でも、右顎に、ある。ひとつ。吹き出物。
「何か悩みでも?」
あるわけないでしょ、大したことないでしょと言わんばかりに、エステティシャンに尋ねられた。
ある。あるわよ。貴女にも関係している。
解約しようと思うのよ、ウエディングコース。
もっと言えばね。
あの人との結婚、やっていける気がしない。
言えるわけがなかった。父はあの人を気に入っている。
娘は箱に入れて育てたから、相手は多少世間に擦れいている方がいいのだそうだ。
私はスマートで優しい彼に憧れたのだけど、父は過去を繕って振る舞う彼に惹かれたらしい。
いいのよ。お酒もタバコも。始めたときは未成年でも、もう大人だもの。
でも、女性は。
部屋のドアをおそるおそる押し開けて、廊下に足を出す。
独身最後の夜なのだから自由にさせてあげなさいとは、父の言いつけだ。破ってしまっているような罪悪感が押し寄せてくるが、散歩よ散歩と押し返す。
「おう。まだ起きとったんか」
いちばん、会いたくなかった人だ。彼の友人。東京にいるらしい。派手な髪型が、恐ろしい。
やっぱりそういう人付き合いなのかと、幻滅した。でも、父は気にせず目元を緩めた。職人なのか、いい筋肉だねえ。それだけ。
「...館内は禁煙ですよ」
「スンマセン。...マジか。部屋でも吸ったぞ」
後半は聞かなかったことにする。
「でも、ちょうどよかったわ。これ持って、アイツらの部屋行って」
ホットココア缶、3本。買ったばかりなのか、手のひらが焼けそうに熱い。
「5分前に女が入ったとこじゃけえ、まだ間に合う。頃合い見計らって電話掛けよう思たけど、こっちのが確実じゃ」
ホテルに、女性?独身、最後?でも
真ん中の缶に雫が落ちた。滑り落ちて、もうひとつ。
「面倒くさいのう」
「なっ」
やっぱりあなた、見た目通りサイテーね!睨む私を、呆れたように見下ろしている。
「最後まで聞けボケ。アイツは人前で悪いことはできん」
実家暮らしやったしの。関係あるのか?
「じゃけえ、しつこく見張っとけ。嫌がられても、悪いようにはならん」
「...あなたが見張っててくれるわけじゃないのね」
「いやじゃ。あんなお子ちゃまのお守り」
心底嫌そうに眉を寄せたのが可笑しくて、笑いを堪えられなかった。
「忙しいやつじゃの。早行け、時間勝負じゃぞ」
「あなたは?」
「寝る」
夜更かしは美肌の大敵やしの。大口で欠伸をしたので、上手く聞き取れなかった。肌なんて気にしなさそうだが、眠いのは本当のようだ。
すれ違う背中を見送ることなく、先を急ぐ。
意を決して、ドアを叩いた。
いいお肌の日
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