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(*本作では、これまでのタルスの冒険譚「約束の日」及び「アルカニルの鏡」の結末に触れています。ご了承ください。)
1、
東西に山脈を切り裂いた巨大な峡谷の全域が、王国の版図だった。北側は眼も眩むような切り立った絶壁、南側の崖は擂鉢状に無数の段が連なって谷底に落ち込んでいる。
その谷底に造られた王宮前の謁見広場では、今しも親裁が下されようとしていた。南大陸の脊梁山脈中にある神政国家ティリケでは、祭祀長にして国王、日神子の称号を持つ者の裁断は、如何なる場所で行われたとしても絶対的な効力を有する。ましてこの咎人は、公衆の面前で聖上陛下を誹謗したのである。
山岳の小国であるティリケの民びとは血縁によって固く結びついており、彼の者の贅言は、古代皇国ザレムの嫡流を自認する彼らの矜持を、酷く傷つけた。彼の者はティリケびとを、ザレムとは縁もゆかりもないただの人間どもと嗤い、民の敬愛する日神子を、化物だと云い放ったのである。
亭午の刻、咎人は衛士に引っ立てられ、広場に姿を現した。
広場の真ん中に据えられた方形の石畳の壇で、宮殿に頭を垂れて座らされている咎人は、名をタルスといい、隊商の用心棒という触れ込みでこの国にやって来た。明らかに人間でない彼の者は、手足が短く不恰好だが、発達した筋肉は逞しく、見事な盛り上りをみせていた。
王宮は、北側の切り立った岩壁を掘り貫いた内部が主館で、張り出した木造の露台が十層に及んで積み重なっている。他国の者はこれを称して階段宮殿と呼んだ。しかしティリケの民ならば決してそう云わず黄金宮と呼ぶ。南向きの王宮には、朝焼けから夕陽まで常に太陽が当たり耀いているからだ。
いま黄金宮前の広場は、冬至を祝う金色祭に集まった人でごった返しており、その公衆の上を非情な宣下が響き渡った。
「首を切り落とせ」
王命は仮借のないものであった。黄金宮の最上段の露台に坐す聖上陛下は、日神子の尊称に相応しく黄金で全身を装われていた。絹の長衣には金糸で精緻な飾りが縫い込まれ、煌めく黄金の仮面を被っている。日神子は、王権の象徴たる金の鉞を高々と掲げた。鉞に陽光が映射した。日神子の背後に控える二人の王子と神官団が、奇妙な節回しで一斉に聖句を誦文し出した。
刑吏二人がタルスの左右の腕を押さえ、首斬り人の斧が振りかぶられた。そして、容赦なく振り下ろされた。公衆は、残酷劇を眺めるような血への渇望で、沸きに沸いた。三日月斧が咎人の頭部を不様に切り落とし、鮮血が噴泉の如く飛沫を上げる様に、誰もが胸を高鳴らせた。
がーー。
あにはからんや、ティリケびとの希は、果たされなかった。
人脂にまみれた鉄塊は、間違いなくタルスの頚に喰込んだ。だが素っ首は飛ばず、弾性のある樹脂のように三日月斧の刃を受け止めたのである。ヴェンダーヤに、須臾の間、肉体を変ずる邪行があり、タルスがそれに長じていることは無論、ティリケびとの埒外である。
一瞬、ポカンとした表情で互いに貌を見合わせていたティリケびとたちは、忽ち口角に沫を浮かべ怒号を発した。手にしていた食べ物や飲み物を壇に投げる者までいる。
そのとき、タルスが動いた。身顫いするが如く躰を揺すると、肩の関節が有り得ない方向に捻れた。
タルスが、刑吏に腕をとられたままその場で蜻蛉を切った。
悪夢のような光景だった。ぐりん、と肩が一回転したにも拘らず、タルスは平然とそこに立ったのである。あまりの不気味さに、刑吏の方がぎゃっと悲鳴を挙げ、押さえつけていた手を離した。タルスの攻撃は神速であった。関節が外れた状態の、奇っ怪な伸長の突きが左右同時に見舞われた。刑吏が弾き跳ばされた。
さてこの間、首斬り人はただ木偶のように突っ立っていたのではない。我に返ると、鈍重な大兵にしては精一杯の機転で、三日月斧を横薙ぎにふるった。刃はものの見事にタルスの腹部を捉えた。が、やはり食い込んだだけで、斬断はかなわない。但し振り抜いた剛力でタルスは吹き飛び、さしものタルスも壇の上に転がって這いつくばった。
首斬り人は、怒り狂った牡牛のようにタルスに殺到した。
地に伏したタルスが、蛇めいた動きをみせたのはそのときである。
筋肉を駆使して短躯をうねらせると、壇上を信じられないような迅さで転げ回った。首斬り人は明らかに、その目まぐるしい動作を追いきれていなかった。
タルスが、足元の死角から首斬り人の脚に自らの両足を絡ませ、引き倒した。
すっくと立ち上がったとき、すでにタルスの両腕は肩に嵌まり、次なる態勢に入っていた。
ヨタヨタと起き上がろうとした首斬り人はしかし、一歩も前に進むことができなかった。鼻先から壇に倒れ、顔面を石畳に強かに打ち付けた。地面に転がすと同時にタルスが、首斬り人の足首を捻っていたのだった。首斬り人の足首は明後日の方に向いていたが、なまじ痛みに強いと自負する本人が気づいていなかったのは皮肉である。
素早く肉薄したタルスは、転がっていた三日月斧を拾い上げると、雄叫びとともに土壇斬りに振り下ろした。
首斬り人の首級が、豆が爆ぜたように飛んだ。鮮血が迸り、見物客の一部に降り注ぐ。皮肉なことに、会衆の希みの一端は果たされたのだった。たちまち阿鼻叫喚の巷となった。
その会衆を掻き分け、短槍を構えた兵士たちが壇に押し寄せた。
タルスは三日月斧を高々と振りかぶり、歯を剥き出しにして威嚇した。槍兵たちはその剣幕に靡いたが、さらに王宮から弓兵が出陣してきたのに心を強くして、たちまちのうちに石壇を取り囲んだ。
位置に着いた弓兵は、軽くて丈夫な半弓に矢をつがえ弦を引き絞る。タルスに狙いを定めた。
2、
「ティリケびとよ! 日神子よ! 手荒くも懇ろな歓迎、痛み入る。どうやら俺の誠意からの忠告は気に入らなかったようだがな!」
追い詰められた末の狂態に会衆の目には映った。不敵にもタルスは呵呵大笑したのだった。
そのとき弓兵の一人が、誤って矢を放した。まだ練度の低い新兵で、緊張で力が抜けてしまったのだった。大して鋭くもない勢いの矢はしかし、タルスの太い腕に刺さった。いかな鍛練をしていても、無意識の間でなされた攻撃には対処が難しい。ティリケびとたちは、初めてのタルスの血に喚声をあげた。だがタルスに一顧だにした様子はなかった。
「汝らは思い違いをしておるぞ。刃を向ける相手は俺ではない。数年来、ティリケを訪れた隊商の面子が姿を消しているのを知っているか? 消えているのは余所者だけではあるまい。父や母が見えなくなった者がおるだろう? 兄弟姉妹はどうだ? 恋人は?」
会衆から上がった悲鳴や呻き声が、周囲を響もした。
タルスの言がティリケびとの間に巻き起こした動揺は、ひとかたならぬものがあった。それはここ何年かのあいだに、路地裏や寝室でこそこそと囁かれていた密語に合致していたからだった。
不意に最前列で短槍を握っていた兵が、我知らず槍の穂先を下げて噎び入った。男はつい先日、許嫁を失ったばかりであった。
形ばかりに痛ましげな目を向けると、タルスは続けた。
「ティリケを覆う黯い暗雲の正体を聞け。遥かなる〈緑光の二重太陽の惑星〉よりこの地に降り来たった昆虫種族の末裔こそが、この災禍の素因ぞ! ティリケは彼の化物に乗っ取られようとしておるのだ!」
今や会衆は、咎人の話に固唾を呑んで攲てようとしていた。
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