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3、
ウウウウウウン……と唸りをあげる異音にタルスの弁舌が阻まれたのはそのときである。それは上方からもたらされた羽ばたきであった。耳にするなりティリケびとは皆、頭を下げて額を広場に擦りつけた。そこかしこで、意気地のない啼泣がわき上がった。
叫喚の渦の中、石畳の壇上に三つの影がゆっくりと降り立った。タルスの真正面である。
黄金の長衣に黄金の仮面を着けているのは、紛れもないティリケの至尊・日神子であった。
黄金の甲冑に黄金の剣を掲げた偉丈夫は、王太子と弟王子であったが、王の両脇に侍するこの二人もまた、仮面を陽光に煌めかせていた。
三者の偉容はまさに神話的であり、彼らが黄金宮から宙を泳いで舞い降りてきたことも、神話の一場面を思わせる光景であった。到底、人の成し得ることではない。彼らが持つのは翅と呼ぶべき飛翔機構で、四枚の薄く広がった半透明の皮膜を、太い幾つもの筋が葉脈状に支えているのだった。
日神子の仮面の奥から、よく通るが、口腔構造の異なる生物が無理矢理に人語を喋っているようなどこか不自然な声が発せられた。
「驕慢にして不敬なる蛮夷よ、身の程を知るがよい。神聖冒涜には、おそろしい神罰が下るぞ」
言い終わるや、目にも止まらぬ迅さで脇侍たちがタルスに斬りつけた。蓋し、翅を推進力に使用したに違いなかった。二条の光芒が、左右から同時に襲いかかった。一つは胸を、もう一つは下腿を狙う息の合った攻撃である。
タルスの対処も、負けず劣らずの疾風迅雷であった。すでに攻撃の〈起り〉を捉えていたタルスは、右手に趨っていた。敵にとっては意想外の動きであったろう。タルスは自ら、兵士どもの槍衾のど真ん中に身を投げたのだ。
だがタルスは串刺しにはならなかった。タルスの倒れ込んだのは、先に穂先を下げ慟哭していた兵の居場所である。兵は咄嗟に構えることすら叶わず、タルスの下敷きになった。
そこからのタルスは、弾む毬のようであった。
猫族のような瞬発力で飛び上がると、手前の王子に遠間から矢のような蹴りを放った。胴鎧を貫通せんばかりの衝撃が王子を見舞い、飛ばされた王子はもう一人に衝突した。
倒れた二人に追い討ちをかけんとしたタルスはしかし、二歩三歩と前に出ただけで膝を折ってしまった。身体中の力が抜け、脂汗が浅黒く焼けた膚に浮いた。ついには両手を石畳につけてタルスは、肩でぜいぜいと鞴のように息を荒げ出したのだった。
「てめえ……」
ともすれば傾げそうになる体躯を保つのが、精一杯の様子である。
王がタルスに、ゆっくりと歩み寄った。神というよりも、冥府の底から轟く悪魔のような声音である。
「神威のおそろしさを思い知ったであろう、浅薄な痴れ者よ。然してーー」
王は芝居がかった仕草で会衆の方を見やった。その物言いには、隠しきれない慢侮の色があった。
「我が民よ。ティリケびとよ。日神子を疑うことなかれ。日神子を畏れよ。日神子を崇めるのだ。それこそがティリケびとの役儀なるぞ」
たちまち会衆は、口々に日神子を讃える聖句を誦して憐れみを請うた。不信心に対する日神子の報いを畏れたのである。
日神子へのタルスの返答は、唾を吐きかけることだった。
「何が神威だ! 騙りめ! そこの奴の剣がーー毒の剣が俺の脚を掠めただけだ! 俺を痛めつけたのは神の力ではない、ただの毒だ!」
タルスは息も絶え絶えだが、まだ闘志は衰えていないようだった。
「お前たちの正体は毒虫だ! 毒蜂だ! 蜂には他の蜂の巣に入り込んで乗っとる種がおる。それが日神子どもの正体だ!」
喋りながらタルスは、上半身を必死に動かして壇の端に躙り寄る。不様といえば不様だが、最後の最後まで諦めないのがタルスという男である。ルルドとモーアキンの間の子という生い立ちの彼が、異種族である人間の中で生き延びてこられたのはこの、往生際の悪さが功を奏したからである。
王が嬲るように、悠々とタルスを追う。復活した王子たちもそれに倣った。虫螻を追い詰めるように三者が、ついにタルスを囲んだ。
「其方には、日神子の広大無辺な慈悲心も届かぬようす。せめて神の手で永劫に安らがせんーー」
三者が各々の武器を振りかぶったとき、タルスがゴロリと仰向けになった。そして高らかに指笛を鳴らした。思いのほか鋭くその音が、谷間に響き渡った。
4、
指笛に応えるように、何処からともなく叫び声があがったのを会衆は耳にした。聴いた者は皆、無意識にブルブルと総身を震わせた。断末魔の苦鳴にも似たそれは、人語ならざる年ふりた音律を持ち、正気の人間ならば耳を切り落としたくなるようなものだったからである。
今度もまた羽ばたきが聞こえてきた。
見上げた者たちはーータルスを除いてーー詞を失くした。
上空を舞い来たった影は、凡そ人間が太古から思い浮かべてきた悪魔の像そのままであった。翼は蝙蝠の皮膜めいていやらしく羽ばたき、ねじくれた四肢は枯れ枝のように長く、先端に鉤爪があった。頭部が歪なのも相まってその姿は、人間に近いようでいて何かが決定的に違っている。そのことがいっそう悍ましさを掻き立てるのだった。彼らこそ古代皇国ザレムの真の末裔・烏人であった。かつて大文明を築いた有翼人種の知性は今やすっかり退化しており、古の詞にのみ反応する人外に成り果てているのだった。
二体の烏人が、不恰好な両手で器用に運んでいるのは、直径が大人の肩幅ほどもある水晶の円盤だった。大きな両凸面のそれは、おそろしく透明度の高い滑らかな表面を持っている。
烏人によって水晶盤が広場に翳されると、その表面に輝線が走った。南中した太陽の光が水晶盤を透過し、蒼い耀きが広場中に拡散された。不可思議で、神秘的な光景だった。これらの事どもは僅かの間に起こった出来事であり、怯えるにせよ感嘆するにせよ、人びとがその超自然の光景に反応するよりも先に、立て続けに事態は推移した。日神子と王族が焔に包まれたのである。
「ギィィィィッツ!!」
魂切る叫びと共に、三つの火柱が出現した。逆巻く焔は尋常のものでなく、燐光めいた、蒼白い、熱のない焔である。
それが蒼い耀きによる結果なのは疑いようがなかった。水晶盤は、今はもう失われた古の文明によって造られた神器であり〈アルカニルの鏡〉と呼ばれている。その霊威力は、二心ある者は胸の裡をさらけ出し、妖魅の類いは正体を顕すというものであった。
日神子たちの変容は、人びとを恐慌状態に陥らせるに足るものであった。
黄金の仮面は剥がれ落ちた。
黄金の剣が、鉞が、壇に転がった。
黄金の長衣は裂け、甲冑も毀れた。
代わって焔の中に顕れたそれらは蟲に似ていたが、尋常の意味での蟲と呼ぶべきかは悩ましかった。日神子であったと思われる個体は、むくむくと巨大化し身の丈は灰色熊ほどにもなった。他の二つも躰を肥大化させ、人の背丈をゆうに半身は超えている。それらの躰は五つの節に分かれ、無数の括れがあった。節にはテカテカと光る硬そうな部分と、ゴワゴワした強い毛の生えた部分がある。左右に四本ずつ、計八本の脚が突き出ており、脚には吸盤と刺がびっしり並んでいるのだった。
最も異様なのは頭部であった。化物は頭を三つずつ持っていた。三つの頭部にはすべて、蜂に似た大腮と複眼と単眼が出鱈目に貼りつけたように散らばっていて、飛び出た長い触角がゆらゆらと揺れているのだった。
変わり果てた王族の姿に恐れをなしたのは、会衆だけでななかった。兵どもも、ワッと叫んで壇から逃げ出した。広場は我先にと駆け出す者たちで大混乱なった。
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