花子の春

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 白井君、早く来ないかな。  彼だけが、唯一この教室内での心の拠り所だ。白井君の大きな背中を前にしている時だけが、わたしがこの居場所の無い空間でも大丈夫と思える。当然のように「おはよう」と笑いかけてくれる。  ただ、今日から始まるお弁当。この不安だけは、まだ拭えないのだけれど。 大きなため息を吐きかけた時、思わず息が止まるほど、溌剌とした声が教室に響いた。 「とーこちゃああん」 「あれ、春野は知り合いじゃないんだろ?」 「えー?だって多分知ってる子だよー。さら艶な黒髪の子でしょ?おとなしい感じの。あたし、トイレで喋った事あるもん」 「なんだよ、そうだったんだ」 「ゆっきーからも聞いてたもん。そういう子が、後ろの席にいるって」  更にべたついた甘い声を作って「それにぃー」と続ける。 「声掛けてあげてって言われたんだもん。まぁ、あいつの頼みをすんなり聞くなんて癪だけどさぁ、海斗の友達でしょー?海斗が良い子だっていうなら、あたしも友達になりたいもーん」  語尾の「もーん」がわざとらしく上に跳ねあがる。  海斗にゆっきー。夏川君と白井君。それにこの声はきっと――  恐る恐る上体を起こして声のする方に顔を向ける。教室中もなにごとかと、みんなの視線が入り口の男女とわたしを交互に見ている。 「あーっ、いたいた。あの子でしょ?」 「そうそう――うわっ、春野、引っ張るなよ」  腕を組んだ状態で急に一歩踏み出した春野さんに、夏川君がドアのレールに足を引っかけてつんのめった。大股で歩く春野さんに対して、夏川君が小走りで付いてくる。こうして見ると、二人の身長差はそんなに無い。僅かに春野さんの方が大きいように見える。多分、夏川君は中二から伸び悩んでいるわたしと大差無い。  席で小さくなるわたしの前に、ふたりがぴたりと並んだ。 「ね、とーこちゃんだよね」春野さんが腰を曲げて覗き込むように言う。 「は、はい」わたしは更に肩を縮ませて、震える声で答えた。 「緋山、いつも野球部見に来てるよね」 「え、えっとそれは……」  どうしよう。やっぱりばれてたんだ。みんなの視線が痛い。 「緋山さんって、野球部のファンなんだ」「なになに、もしかして好きな人がいるとか?」「野球部のマネージャーにでもなりたいんじゃない?」など、勝手な憶測を交えたひそひそ声が嬉々として飛び交い、わたしの心の深い所を濛々としたもやが覆い始める。 「でも、俺また緋山と会えて嬉しいな。昨日、やっと目が合って嬉しかったんだよ」  また?またってどういう事? 「えーっ。駄目だよ海斗。海斗はわたしの彼氏でしょー」 「なんだよそれ、聞いてない聞いてない。怖い怖い」 「だって毎朝いちばんに会うじゃん」 「いや、勝手にうちのクラスに押しかけに来てるだけだろ。入学式の次の日にいきなり知らない女子が来るんだから、びっくりしたわ。つーか、朝いちにあうのが彼女なら、俺の彼女は近所の家のココアだな。でけぇ秋田犬がいんの。毎朝挨拶してから来るからな」  やだあ、酷いんだけど、と春野さんが頬を膨らませる。
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