花子の春

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「ほら、こんな風に腕まで組んでるしさあ。ココアちゃんは腕組めないじゃん。犬だし」 「すげぇ力で抑え込まれてるだけだぞ、これ。捕獲だよ捕獲。俺、捕獲されてるだけ」  周りにいた他の生徒から笑いが巻き起こる。春野さんも「もうっ」と口を尖らせて、それでも嬉しそうに笑って、更に夏川君に身体をくっつけている。  わたしはふたりの漫才みたいなやりとりを、ずっと俯きがちで唇を噛んで待っているしかできなかった。 「もしかして緋山、俺の事覚えてない?」  夏川君はそう言うと「あちゃー」と大袈裟に後ずさりして額を叩いてみせた。 「俺も北岡中学だったんだよ。同じクラスにはならなかったけどさ。覚えてくれてるかなって思ったけど、そうだよな。仕方ないか。あの頃は――」  自分でもやり過ぎたと思った。勢いよく立ち上がったせいで、椅子が後ろの机に音を立ててぶつかって、そのままひっくり返った。「言わないで」と口にしようとしたら、唇がわなわなと震えて止まらない。心臓が暴れて、額にじとりと嫌な汗が滲むのも感じた。 「や、やめ、て……」  蚊の鳴くような声を絞り出し、教室を飛び出していた。  廊下を走っている途中、登校して来た白井君とすれ違って何か言われたが、足を止める余裕すらなく階段へと続く角を曲がった。  この高校には、中学の自分を知っている人がいない所を選んだのに。  生憎、誰もいない高校とはならなかったが、それもひとりだけだ。当時のわたしとは接点も無かった大人しい女の子。中学の頃のわたしがどんな人間だったか、言いふらされる事もないと思っていたのに――。  どす黒い世界。代わる代わる背中に乗られて息が出来ない昼休み。廊下を歩いているだけで聞こえてくる「きもい」「ブス」「死ねばいいのに」の言葉と笑い声。  頭からかけられる牛乳。授業中、僅かに動くだけで背中に飛んでくるハサミやカッター。右肩に当たったら三十点。頭に当たれば五十点。。顔はラッキー百点満点。罰ゲームは緋山に話しかける事。  飛び出してきそうなくらいに激しく暴れる心臓と、どんどんとペースが上がる呼吸を押さえつけるように、胸元のシャツをボタンが千切れそうな力で握り締める。  階段を駆け上がり、屋上の重い扉を身体で押し開けると、春のあたたかい風がぶわりと一気に吹き込んで、スカートを大きく膨らませた。  白い雲が気持ちよさそうにたゆたう、透明度の高い青空。学校の敷地のすぐ向こうには、白地に青いラインが入ったご当地電車が横切って行く。 「中学の頃と何も変わってないじゃない」  膝下の長いスカートを見下ろし、自嘲めいた笑いを漏らした。  高校で生まれ変わるつもりだったのに。  春の風に溶ける潮の香りが鼻孔をくすぐって、顔を上げた。ふたつの山の間から扇状に広がって見える深い青の海が、穏やかな顔をして横たわっていた。
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