花子の春

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 ひとりぼっちの静まり返った部屋に、玄関の鍵が開いた音と、アパートの重く錆びたドアの音が響いた。  いつもなら疲れた母の「ただいま」が聞こえてくるはずが「うーん」と唸るような声だけが襖の向こうに聞こえるだけだ。ノートにシャーペンを置き、部屋を出た。  母がいた。玄関マットにうつぶせになった母の脇には、形を崩した買い物袋からお弁当用のちくわがはみ出していた。 「お母さん」  慌てて駆け寄ると、今度はごろんと身体を仰向けにして薄目を開けた。 「灯子ただいまぁ。今日は馬鹿みたいに忙しかったのよ。ごめんごめん、こんな所で寝ちゃ駄目だわ。ご飯食べた?」 「うん、食べたよ。大丈夫なの?」 「大丈夫、大丈夫。そうだ、明日のお弁当、ちくわの磯部揚げ入れようかと思って買って来たの。灯子、好きでしょ。磯部揚げ」  母が、よっこらしょの掛け声で立ち上がる。わたしは買い物袋を台所のテーブルに載せて、中身を冷蔵庫に仕舞っていく。 「お母さん、わたし自分でお弁当作るよ」 「良いの良いの。灯子はやる事沢山あるでしょ。高校なんて課題も多いし、テストだらけだし。お母さん、勉強もぜーんぜん駄目だったからねぇ。灯子は頭も良いから頑張って欲しいの。それに、高校生はお友達とも沢山遊ばなくちゃね」 「さて、お風呂入らないと」と、母が洗面所の電気を点け、仏壇のある和室の襖があいているのに気付いて黙ってぴしゃりと閉めた。  五十歳を超えてから余計に細く、枯れ枝のようになった背中を見送ったわたしは、そっと自室に戻った。
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