花子の春

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 家では自信満々だったメイク。沢山練習したのだ。なのに、自信満々なのは家を出るまで。家を出て、数歩で周りの視線が気になってしまう。  もちろん通行人の誰ひとりとして、わたしのメイクなんて見ているはずは無いのだが、一度そんな気がしたら、被害妄想はどんどん膨らんでいく。  ホームで電車を待つ間も、出来るだけ人の少ない列の一番後ろに立っていたが、二日目からは駄目だった。メイクをして家を出るものの、高校のある水居駅のトイレに駆け込んでメイクを落とした。  実はこの流れ、入学翌日から今日に至るまで、毎日繰り返している。  可愛くなろう。明るくなろう。過去に決別して生まれ変わりたい。  入学前はそう意気込んでいた決意が、家を出る度に簡単に鈍ってしまう。  陰気な自分から脱して生まれ変わりたい。まわりの意見や目におどおどしない。惑わされない。自分を貫く。  自分を鼓舞し、自分に喝を入れ、しかし翌日の自分がこれまでの自分の努力を水の泡に変えて。自分で自分の情けなさに泣きたくなって、自己嫌悪に陥って。  さて、いま何回「自分」と言ったでしょう――なんて馬鹿なわたしが頭のなかでちょっぴりおどけて、まともなもうひとりのわたしが恥ずかしくなったくらいには、近頃ほんとうにどうかしている。 「慣れない事はするもんじゃないな」  呟いた情けない言葉はうす暗いトイレに虚しく響き、やがて廊下の向こうからやって来る挨拶を交わす声にかき消された。  綺麗に掃除された個室が四つ並ぶトイレは、奥に窓がひとつ。薄暗い灰色のタイル張りの床に、春の麗らかな陽光を落とす。僅かに開いた窓から漏れ聞こえる賑やかな「おはよう」は、真下にある駐輪場からのものだろう。  トイレの扉の前を通り過ぎた頭の内のひとつが、思い出したように戻って来た。 「あたしトイレ済ませてから行くから。先に行ってて」 「オッケー。美羽、あんた二組だからね。昨日、四組に行ってたんでしょ?もう一週間通ってんのに馬鹿だよねー、ほんと。四組って向かいの棟じゃん。間違う意味がわかんないって」 「間違ったんじゃないですー。好きな人がいるからわざとですー。じゃ、あとでね――おっと、ごめんね。大丈夫?ドアぶつからなかった?」 「だ、大丈夫です。失礼します」 「失礼しますって、やだあ、あたし先生じゃないよー」  ゆるやかなウェーブが掛かった栗色の髪。第一ボタンが開いた胸元に指定外のピンク色のチェックリボン。張りのある滑らかな曲線を描く太ももが覗くスカートは膝上丈で、雫のように澄んだ青いピアスが光る。ほっそりとした顔に、まつげはくるんと上を向いて、艶っぽい赤い唇の両端を上げ、大人っぽいその子は、トイレ中に反響する高い声で笑った。 「そうだよね、ごめんなさい……。じゃ、わたしは行きます」  結局こうだ。人前では絶対におちゃらけた人格なんて出てこない。心のなかに隠れているだけの偽りの明るさなんて、なんの意味もない。  もう何も付いていないのを確認するように右瞼を一度擦り、逃げるようにトイレを後にした。ドアを閉めた瞬間にふわっと香ったチョコレートのような香りは、あの子の香水だろうか。
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