花子の春

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 嫌な記憶を振り払い、しつこい寝ぐせの前髪を押さえながら、重い足取りで教室へと向かった。前髪から手を離せば、ど真ん中で左右に開く。閉まりの悪いカーテンみたいに、こんにちは、こんにちは、と額が出しゃばる。あまりのしつこさに少し強めに下に引っ張って――二本、千切れた。  一組に戻ると、窓際の一番前の男子がひとり席についていた。眠っているのだろうか。机に突っ伏して、背中はゆっくり上下している。 「し、白井君……おはよう」  今度こそ、と俯いて通り過ぎようとしていた足を止め、右手で前髪を押さえたまま、左手で髪を耳に掛けて口角を上げる。わたしの声に気付いた白井君が、眠そうな顔で私を見上げた。  大丈夫かな。ちゃんとできたかな。  だが、すぐに最初の頃の不器用で不細工な笑顔が脳裏を過る。目じりがひくついて、なぜか鼻の穴まで大きくなって、無理矢理歯を見せようと不自然で不気味な笑顔が思い浮かんで。突然、夢から現実に引き戻されたみたいに、みるみる笑顔が崩れていく。 「おはよう、緋山。どうかしたの?それ」  白井君は「怪我でもした?」と人差し指でわたしの額を指す。 「ううん、違うの。これは……その、寝ぐせで」  体を起こして座り直すと「大丈夫だよ、それくらい」と軽く笑った。  わたしの席は白井君のひとつ後ろだ。運動不足の右腕が悲鳴を上げそうになったので、観念して前髪を押さえるのは止めにした。また前髪が左右に跳ねて「こんにちは」したけれど、もう諦めよう。白井君の後ろの席――わたしの椅子を引いて腰を下ろした。
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