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第三話 青春宣言
月曜日から、空はとてもよく晴れた。
昼休み、俺は購買で手早くパンを買ってしまうと、屋上に向かう。
休み明けの午前中は学校内の各施設の点検があり、昼休みの間だけこっそり屋上の鍵が開いているのだ。
禁を犯してまで忍び込む者もおらず、風が渡るばかりの屋上は、美優だけがフェンス際に、ちょこんとたたずんでいる。
「よっ、待った?」
軽い感じで会釈するも、美優は押し黙って、あの冷たい視線をじっと俺に向けているのだった。
俺は気まずいまま、その隣りに並ぶ。
「ここ、入れたんだね」
月曜の屋上に忍び込めることは、俺が教えたのだ。
「悪くないだろう?」
俺たちは遮るもののない高い空を見上げる。別に青空をながめるためにここへ来たわけではない。
「少しは気持ちの整理も付いたかな?」
美優はたずねる。先の週末に、俺は彼女にとんだ醜態をさらしてしまっていた。
「君は私を知っている」と、彼女が言ったことの真意は計り知れなかった。けれども、俺が彼女にどうしても敵わなかったことと、その言葉とは、深い繋がりを持っていたのである。
「まさか、驚いたよ」と、言いながら俺は、また気持ちが乱れてしまう。
「ミコトが、お前だったなんて」
俺は、夕陽の放課後で、とっさの宣言をしてしまったとき、ミコトの名を明確に伝えていた。彼女は、あこがれの相手が自身だと知った上で、ずっと俺のことを軽くあしらっていたのだ。
「私は、君に影響しすぎたのが申し訳なかったんだよ」
まるで、言い訳のように言う。
「君がミコトの名前を出したときから、私は君に負い目があった」
あそこでとっさの宣言をさせたことに、責任を感じているとはすでに語っていた。けれども、その宣言の前段階で、彼女はすでに俺を放置できない立ち位置にあったのだ。
逆にそうした噛み合わせがなければ、俺はあこがれた人がすぐ隣りにいる事実すら永劫知らされなかったのだろう。
「運命なんて信じないけど、偶然っていうのは、面倒くさいよね」
そう言った美優は、心からうんざりした様子だった。俺としては、ほんの数日前まで、どこか淡い予感を抱きながら、もどかしく距離感を見計らっていたのだ。あれは、俺のひとり相撲だったのか。
「でも、君の決意もそのときの勢いだったろうから、そのうち冷静になるでしょ。だから、それまでは寄り添うことにしたんだ」
「寄り添った、そのあとは?」
「君の願望次第だよ」
美優は、ここへ来てまだ俺に勘違いでもさせる算段のようだ。
「借りにするつもりではいたから、君の気が済むように幕を引いて、それで、全部チャラ。初めからそのつもりだった」
つまり、こうして腹の内が分かったあとも、彼女はもうしばし俺の迷いごとに付き合うつもりのようである。
「こんなところに呼び出したからには、何か話したいことでもあるんでしょ?」
要求があるなら言えと、彼女は言いたいのだ。
俺が彼女を呼んだことに、目的や目論見の類はない。俺は文学少女様ほどに聡明でも、秀才でもない。物事のひとつひとつに意味を敷き詰められるほど、己の行動に頭の計算が追いつかない。
俺はただ、直接ふたりきりで話をすれば、心の整理でも付くだろうと思ったのだ。
けれども、彼女には愚鈍な人間の内心など推し測れまい。俺は、彼女の問いになんと答えたものか、考える。今なら、どんな要求も通せるかもしれない。どんな願いでも――。
しかし、ここで邪まな駆け引きを仕掛けられるほどに、俺は悪賢さすらも備えてはいないのだ。
「新作は、書かないのか?」
俺は、そうたずねていた。
ミコトが発表しているのは、ほんの一作である。俺がミコトを知ったときに前作はすでに完結済みで、以来彼女のアカウントは見掛け上、停止したままなのだ。
「もう、書く必要はなくなったからね」
美優は、冷めた声で答える。俺は、せめて小説にまつわる彼女の情熱に期待したのだ。しかし、ミコトについてさえ、彼女はそんな冷徹に語ってしまえるのか。
その悲しいほどの冷徹さは、どこから来てしまうのだろうか。
「書けなくなったのか?」
俺は、たずねる。せめて書かないことに、深い事情があるものと信じたかった。
「そうかもしれないね」
美優は、あわれむような笑みを浮かべ、答える。俺の必死な願いはダダ漏れだったに違いない。それに合わせて、答えを選んでくれたのだ。
「書けなくなったのかもしれないね」
青空をながめて、そんな風につぶやく。
「魔女の、宅急便」
いつか彼女自身に語られたその作品名を、俺は口にする。
「そのうちに、書きたくなるって?」
もちろん、俺の言いたいことくらい、彼女には先読みされている。
「その日まで、空想の物語はお休みにすればいい。その代わりに、早乙女自身が、自分の青春を探せばいい」
そこまで言ってしまったのは、無理やり知恵を絞っただけの、強がりだった。
「青春かあ」と、美優は笑ったりはせず、鷹揚に言う。本気にされないことが、俺にはかえって身に応える。
「君が、一緒に探してくれるって?」
「俺自身も、見つけたいくらいだからな」
ミコトに傾倒してからというもの、俺自身もクラスに居場所がないのだ。あこがれていた人でさえ、苦い実体を伴って現実になってしまった。向かう先を喪失してしまっているようなのは、むしろ俺のほうだ。
ちょうどそのとき、屋上の出入り口辺りから、甲高い笑い声が聞こえてくる。
「んで、結局一時間ずっと語っちゃっててさ~、なあにが自習時間だって感じ」
明らかに柄の良くない会話で、間もなく屋上に女子生徒がふたり、姿を現す。
土曜日に、梁田マユミと連れ立って歩いていた、ふたりだ。
彼女らは、俺と美優の姿を認めると、ぴたっと笑い声を止める。
「あっれ、先客いるし」と、心の声もダダ漏れに、どこか気まずそうに進み出ると、辺りを見回す。
「ってか、マユどこよ? 先行ってるとか言ってなかったっけ?」
すると、どこからともなく、答える声がする。
「ここだよ、ここ~」
唐突な声に、先のふたりはきょろきょろと首を左右に振る。
俺もそのふたりの動きにならう。すると、屋上の給水塔の上から、白い手がひらひらとなびいている。
「あらよっと。よく寝たわ~」
さっと手が引いたかと思うと、プラチナブロンドの長い髪をはためかせながら、ワイシャツの胸元が窮屈そうな上半身が現れる。
梁田マユミ、その人だ。
「マユさあ、あんた、そこ登る~?」
仲間の少女がそりゃ確かにというツッコミを入れる中、マユミは意に介さない様子で、給水塔に取り付けられた梯子を降りてくる。
「別に~~。あそこのほうが空も近いし、気持ちいいかなあと思ってさ~」
頭の後ろで手を組んだマユミは、まともに聞いていない上の空な様子で、空を仰ぐ。
「ま。興が冷めちゃったけどね~」
手をひらひらさせながら、もう屋上の出入り口へと向かっている。
「はあ~~? 今日ここでメシするって言ったの、あんたじゃん?」
連れのふたりも、騒々しく屋上を後にしていった。
去りがてら、マユミはチラッと、気づくか気づかないかの一瞬、俺のほうに横目をくれた。
騒がしい声が遠ざかると、俺は急に現実に呼び戻された。
「聞かれた……かな?」
俺は恐々とつぶやく。マユミは、確実に俺たちが来るより前にここにいたのだ。
「たぶん……。でも、寝てて気づかなかった可能性も……」
最後の思わせぶりな一瞥だって、特に深い意味はないのかもしれない。
「とりあえず、私たちも戻ろうか?」
美優にそう言われ、俺はもう一度、はっとする。
「ああ……。それが良さそうだな。意外にここ、使ってる奴いそうだし」
また珍客が乱入する前に、俺たちもこの場を立ち去ることにした。
校舎への戻り際、俺はふと、空を振り仰いだ。
マユミが先ほど言っていたこと。ここのほうが、空が近いから――。
「そういう感性、してるんだな……」
そんなことを、おもむろに思うのだった。
※ ※ ※ ※
青春宣言などしてみたは良いものの、俺は特に何かを具体的に実践できるわけではない。
美優とはときどき一緒に帰ったりだとか、昼を一緒に食べたりだとかで、それとなく共に過ごす時間は増えた。
周囲からは付き合っているものと思われていたかもしれないけれど、もはや周りの目はどうでも良かった。危害すらないほどに俺はもうクラスの大勢と縁遠かった。
とにかく、期せずして俺は美優の心の奥に眠っていた感情に触れてしまったのだ。それはきっと、長い間寄り添う人もおらず、閉じ込めていた感情だ。
なんとなく、責任は感じていたのだ。仮初めであれ、俺が寄り添うべきではないのか、と。
おかしなものだ。向こうは俺に義理を感じているのに、俺も向こうに義理を感じているのだから。とはいえ、美優は俺があこがれたミコトその人だから、という想いは、少なからず影響していたと思う。
そうやって、ひと月くらいが経った。
うちの高校では、新入生限定の謎のマラソン大会があるのだが、これが少し離れた河川敷を二十キロほど走る大掛かりなものなのだ。
入学早々、転校でも検討させる魂胆なのか、持病でもない限り、基本的には在学生全員、強制参加だ。
もちろん途中リタイアも許されてはいるので、体育系の行事が不得手な層は、もっぱら仲の良い相手と駄弁りながら、リタイアまで時間を潰すのが慣例のようだ。
俺は当然ながらそちら側の層だが、日が暮れるまでだらだらと河川敷を歩かされるのもまた地獄である。運動が苦手というほどでもないので、大会当日は息苦しさに足を引っ張られては立ち止まり、早く終わらせたい一心でのろのろ走り出して、という半端な醜態をさらしながら、幽鬼のように初夏の河川敷をふらつくのだった。
なんとか終盤に差し掛かろうという地点で、誰かが俺の隣りに並んだ。
「やあやあ、青春少年くん」
誰かと思えば、梁田マユミその人である。
俺は変な感じに背筋が正される。まるでだらしなく走っているのを咎められたかの体たらくだ。
いざ並んでみると、こいつは俺よりも頭ひとつ背が高い。
「ゾンビみたいじゃないのさ~」
鼻に引っかかるような特徴的な声で、異次元の住人は言う。
「あんたこういうの真面目にやるタイプだったのね~ん?」
妙に粘っこく絡まれて、俺はもごもごと生返事をするしかない。マユミはそんな俺の様子を横目で観察しているようだった。
「なんのつもりだって感じよねん?」
異世界からの使者はニンマリと口角を吊り上げた。俺は忘れたわけではない。こいつは、俺と美優との秘密を掴んでいるのだ。
弱みを握った小悪魔が、いよいよ付け入る隙を見出して、舌をちらつかせながら近く寄ってきたというわけか。
俺はまさしく蛇に睨まれた蛙のような心持ちだ。
ただでさえマラソンのために息が苦しいのだ。その上にこの重圧感なのだから堪らない。
マユミもそのことに勘付いているようだった。俺の足取りがおぼつかないのに合わせて走るテンポを緩め、俺がそれにつられて足を止めてしまうと、向こうもそれに合わせて足を止めた。
しばし並行して歩きながら、俺が息を整えていると、俺たちの側を通り抜けていく者たちはほとんどいなかった。マラソン終盤にもなると、グループとグループとの間はだいぶ空いてしまうものである。
マユミはさして息を切らした様子もなく、俺の呼吸が落ち着いてくると、声を掛けてくる。
「んまあ、あと何キロもないんだしさ、ゆっくり話しながら行こうよん?」
それはまるで、近くで聞く者もいないこの機会に、後ろめたい交渉を済ましておこうと持ち掛けるかのようだった。
「で、青春ごっこは順調そ?」
にたりと浮かべた笑みは、悪意に満ちているように見えた。
「順調さ」
相手のペースに呑まれないよう、精一杯強がったつもりだが、どうも上手くいかなかった。
「息切れしてんじゃんね?」
あっさりと見抜かれてしまったのは、何もマラソンのペースについての指摘ではあるまい。
「助けてくれるってわけじゃなさそうだな」
「アタシはオタクに優しいギャルなんかじゃないからさ?」
鷹揚に言うが、蛇が丁重に立場表明したからとて、睨まれた蛙の気が軽くなるわけではない。
「その優しくないギャルが――」
「ギャルって自認もしてないけどねん」
「優しくもないし、ギャルでもないのに、俺みたいな虫けらに構うんだな?」
「そうしないと話、続かないじゃんね〜?」
「……茶番劇なんか続けて、何を期待してるんだ?」
「逆さね、逆〜。君がアタシに期待する立場じゃなくって?」
美優とはまた違った形で、この少女とのやり取りも、掴みどころがない。
「早乙女と甘酸っぱくつるんじゃってさ~、どうせまだ付き合っちゃいないんでしょ?」
「付き合う予定なんか、ないよ」
あこがれの人であろうと、否、あこがれの人であるがゆえに、俺は美優の足元にも及ばない。
彼女が俺の側にいるのは、彼女が俺に感じているらしき後ろめたさをチャラにするため。貸し借りを相殺するためであって、俺という人間に親しみを感じているからではない。対等ですら、ほど遠く違うのだ。
「屈折したってさ、誰も助けちゃくれないんだよ?」
マユミは、言外に甘えるなと突きつけているようだった。そんなこいつは、俺から何を引き出そうとしているのだろう。
けれども、
「ま、アタシみたいに焼きの回った人間なら、話は変わってくるんだけどさ~」
そう言ったこいつは、単純に俺を揶揄しているのとは異なるようだ。つい先刻、優しいギャルではないなどと宣告したばかりなのに、である。俺はついつい、なんのつもりだとこいつの余裕な横顔をまじまじと見返してしまっていたものらしい。
「おもちゃにしてやろうってのよ、感謝してよねん?」
にんまりと口角を吊り上げたマユミは、相も変わらず腹の底が知れない企みを巡らしているようだ。
「聞いちゃったもんは聞いちゃったもんだしさ、内側にひん曲がった奴を外向きに折り返してやるのも、人生経験じゃんね?」
なおも俺が呆けていると、マユミはおもむろに走り出し、それはまるで、自分のペースに付いてこいと言わんばかりに思われた。
ゆえに俺もその後に従って走り出した。奇妙ながら、愉快で刺激的な予感が全身を取り巻いているのを、俺は感じていた。
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