第六話  扉を叩く者

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第六話  扉を叩く者

 気のせいか、誰かの視線を感じることが多くなった。  あるいは、何かの忍び寄ってくる感覚、と言えたかもしれない。  のぞみとは、俺とマユミとの三人で作ったメッセージグループでぽつぽつとやり取りが続いていた。  もっとも、出会い方の湿っぽさに相反して、「今日の夕陽がきれいだった!」とか、「お昼にパンとおにぎり悩むけど、どっち?」とか、交わされるのはそんな緩い絡みばかりである。  重たく難しい問題を抱えてつながったはずが、あっけらかんと気軽な関係に着地しているのは、その息苦しさを遠ざけるようでもあった。とはいえ、嵐の前の静けさは、身を置いているうちは穏やかなことこの上ないものだ。  その予兆に気付くのは、すべて過ぎ去ってしまってからなのである。  俺自身は、自分の中で閃いた何かと、静かに向き合う時間が増えた。特にせっぱつまるわけでもなく、ノートに難しく何かを書き込むでもない。  それでも、あとちょっとではっきりしそうなその何かをつかもうと、ふらふらと徘徊するような日々が続いた。  簡単に言葉にしてしまえば失われてしまうその何か。その輪郭をなんとか掴もうと。それこそが、空想の世界を創作することなのだと、俺は心のどこかで考えていた。  そんなある日、俺は、一本の電話を受けた。  電話は、マナブさんからだった。 「よぉ、ひとりかい?」  それは、聞いたことのない低い声だった。 「ひとりですね」と俺は答える。なぜひとりでいるかを気にするのかは、聞き返せなかった。ただ、俺は昼下がりの公園で本当にひとりだった。だから、言い逃れはできないように思った。 「なら、良かった。この前、マユと三高に行ってきたろ?」  やはり、切り出す話題はそれだった。 「そのとき、誰と接触した?」 「あの、宍原のぞみという女の子と」 「そのほかには?」 「ほかには、誰も」 「本当に、か?」 「ええ。本当に、です」 「近くに、誰かいた気配は?」 「いえ」  答えてから、ふとあの河川敷で、感じた誰かの視線を思い出すものの、 「……心当たりは、何も」 「そうか。なら、良かった」  マナブさんも、語らずに呑み込んだ何かがあるようだった。 「ひとつ、忠告させてほしい。この先、君に近づく誰かがいるかもしれない。だが、容易に心を開いちゃいけない。特に――」  マナブさんの声は、そこで一段と低くなって、 「美優ちゃんのことは、絶対にな」  俺は、心臓を細い針で刺し貫かれたような心地がする。  その先を、なぜ彼女の名を持ち出すのかを、俺は知りたかった。けれども、マナブさんの問いかけに、先に心を閉ざしたのは俺のほうなのだ。  電話が切れてしまってから、俺は茫然と目の前の地平線を眺めた。真夏を迎えて、うだるようにゆがむ地平線。  つい先刻まで、穏やかな陽気に包まれているように思っていた。けれども、季節はすでに苛烈さを迎えていた。  俺は、夏蝉の騒がしい声が迫ってくるのを感じながら、にわかに騒々しさが、俺の周りを掻き乱す予感に駆られていた。    ※  ※  ※  ※  それからすぐ、夏休みがやって来た。決まった用事がなければ生徒たちが学校に集うことのない、空白のような期間。それが誰かにとって都合の良い事態であって、その一方で別の誰かに不都合な展開であることを、俺はなぜか感じていた。  俺自身は、おそらく、「不都合」の側だったのではないかと思う。  学校があれば、美優と顔を合わせる機会にも困らない。能動的に動かずとも彼女と会えたことに、俺は甘えていたのかもしれない。きっかけさえ失ってしまえば、俺は彼女のところに歩み寄る勇気さえ振り絞ることができないのだから。  代わりに、俺は彼女の古い友人と顔を合わせる機会が増えていた。暑い夏の盛りでも部活の練習はあるらしく、度々三高に訪ねるのぞみと、部活終わりに会うことが多くなったのだ。  この日はグラウンドの外から、彼女の練習風景を俺はじっと見守った。己はインドアも良いところなのに、こうして眺めているだけで、少しは当事者の近くにいられるようなつもりになってしまう。 「おっ待たせ~!」  やがて現れた彼女の明るさは、美優とも、マユミとも違う、屈託ないものを感じさせた。俺は、彼女のこういうところに、居心地の良さを次第に感じていた。 「ふう~……今日もいい汗かいたよ~」  蒸し暑い公園で、隣り合わせに並んでアイスを嗜みながらのぞみは言う。たとえ暑くても、彼女はこうして外の風を感じているのが好きなようだった。そういう、細かなこだわりがあるのも、俺が彼女に親しみを感じるゆえんであった。 「マユちゃんは?」  ふうと息をついて、のぞみはたずねる。 「野暮用だとよ。最近多いな」  元々は暇していることがほとんどだった人間が、近頃はとんと姿を見せない。必然として、俺とのぞみとはこうしてふたりで会うことが多くなっていた。 「君は?」と、再びのぞみは問う。この問いは、今日ここに来るまでに、どうしていたのかとたずねていた。そんな機微も伝わるくらいには、彼女といる時間も習慣的になっていた。 「図書館で勉強」と俺は答える。実際は、書けない小説の構想をひたすらにつむぎ出そうとしていたのだが。 「君もがんばるね~」と、あきれ気味に返すのぞみは、俺のそんな強がりも見抜いているのだろう。 「でも、私も今日は勉強しよっかな~。最近、遊んでばっかだったし」  ため息のようにのぞみは言うけれど、まだ八月の声を聞いてさほど経たないくらいなのだ。 「じゃ、図書館行く? 俺も、荷物置きっぱなしだし」 「いいね。そういうとこは気が利くよね、君も?」  何も彼女のために席取りしていたわけではないのだが、俺も細かいところは突っ込まないでおく。  彼女と一緒に図書館へ戻ろうとしたとき、スマホに誰かからのメッセージが来ていたことに俺は気づく。  誰だろうか。友だちも少ない俺は、普段頻繁にやり取りをする相手の数など、たかが知れている。  ――あなたは誰?  通知欄に、見知らぬ差出人の名前で、そんなメッセージが読めた。  俺は瞬間、凍りつく。 「どうしたの?」  すでに先に立って歩いていたのぞみが、振り返ってたずねる。 「いや、なんでもない」  俺はとっさにごまかして言う。あとから思い返すと、彼女をなるべく巻き込まないでおいたのは、大正解だった。 「変なの」  のぞみはなおも訝しそうだったが、俺はスマホをポケットに突っ込んで、妙にはしゃいだりしながら、のぞみと並んで道を先へ進んだ。  いつしか感じた騒々しさが、また一歩、俺のほうへ近寄ったような感覚が、足元から俺を襲っていた。 「なんで、急にミステリー展開なんだよ……」  俺は、そんなぼやきをせずにいられなかった。    ※  ※  ※  ※  なんともしがたく落ち着かない俺は、自習を始めたのぞみにトイレに立つと伝えて、図書館の外でマナブさんに電話を掛けた。  我ながら、急に電話を掛けるなど、思い切っていたと思う。けれども、らしくないその思い切りの良さが、きっとマナブさんには、俺が「普通でない」ことを伝えてくれるものと、俺は信じていた。  幸運にも、呼び出し音はわずかで、マナブさんは電話に応答した。 「どうした?」と、重い声のトーンは、やはり状況を薄々察してくれているようだ。 「前に、誰かが近づいてくるって、言ってましたよね?」  そのときに深く聞けなかったことを、俺はいよいよ、踏み込まねばならないと感じていた。 「今、俺のスマホにメッセージが来まして――」  俺は手短に状況を伝えた。不思議と動揺はなく、落ち着いて伝えることができた。 「なるほどな」と、状況を共有されたマナブさんはため息をつくと、 「そいつはたぶん、さくらだ」 「……さくら?」  聞きなれない名だった。むろん、心当たりはない。 「ちょいとワケありな奴でね。ただちに君に危害が及ぶことはないと思うが、面倒なことになったな」 「そのさくらってのは、どこの誰です?」 「……いや、今はちょっと話せない。ひとまず、そのメッセージはまだ返信してないよな?」 「未読のままにしてます。通知欄で読んだので」 「よし。そしたら、まずはそのままにしておくのがいい。気味悪いだろうけど、今は我慢だ。もしこの先、また変わったことがあるようなら、そのときはまた、俺に伝えてほしい。しばらくスマホにはすぐ出やすいようにしておく」 「マナブさん、その人のことを、知ってるんですね?」 「ちょいと昔にな。大丈夫、大事にはならないさ。君の連絡先を知ってたのだって、特に変なからくりはないはずだ。君、アカウントに本名出したりしてないか?」  確かに、ニックネームを使うと誰が誰だかわからなくなるので、そうしていた。 「さくらは、三高の一年だ。君らと同級だな。おそらく、君が三高によく訪ねてくるのを、どこかで見てたんだろう。もしくは、君を見かけた誰かに情報をもらったか。最近のSNSは下手に知人のアカウントを表示する機能があったりするからな。たぶん、そんな繋がりをたどって君のアカウントを特定したのだろうよ」  そこまでの情報戦を仕掛けてくる人間が、一体自分に何を期待して接触しようとしているのか、俺はやはり、背筋の冷たさが絶えない。 「すまないな、頼ってもらったのに。だが、安心してほしい。このまま傍観しているつもりもないからな」  どうやら、この人にも一筋縄では行かない思い入れがある様子だった。  俺は不意に、マユミのことを思い出す。  なぜかこんな俺と接触を持ち、優しいギャルなんかじゃないとうそぶきながらも、お節介に立ち回り続けた彼女。  きっと、彼女も一枚、二枚と噛んでいるに違いなかった。 「俺のほうでも、君に伝えるべきことがあったら共有するよ。君は何もなかったように、今までどおり過ごしてほしい。のぞみちゃんとの接点も、大事にな。それと――」  声を低くしたマナブさんは、 「マユの奴には、このことを話さないでやってくれないか?」  あえての疑問形だった。嫌だと答える余地はあるはずない。俺の意思でイエスと答えさせることで、その要求を、確かに通そうとしているのだろうと思われた。 「ええ、わかりました」  俺は素直に従った。何もカードがない状況では、マナブさんに従うほかに、道はなかった。 「マユミの奴、どこで何してんだろうな……」  電話を切ると、俺は自然と、そうつぶやいていた。    ※  ※  ※  ※  何もなかったかのように、今までどおり過ごしてほしい。  求められるまでもなく、俺は次の日も、そのまた次の日も、三高のグラウンドの側で、のぞみの練習風景を見守った。  変に意識するなと言われて、かえって俄に働く意識もある。だが、きっとそれ以上に俺は待っていた。ここでこうしていたがゆえにおかしな事態に巻き込まれたのなら、そのおかしな事態は、ここにいれば向こうから近づいてくるに違いないのだと。  なぜ、そんなことに好奇心を寄せるのか自分でも不思議だった。美優との接点を深掘りできないのを、ほかの懸念事でごまかそうとするかのようでもあった。  とはいえ、叩けよ、さらば開かれん、とは至言のようである。むろん、この場合、叩く主体は俺ではなく、向こうのほうだったのかもしれないけれど。  その瞬間は、前触れもなく訪れた。  まるで空から大きな黒い翼をはためかせて、いたずらな堕天使が舞い降りたかのようでもあった。 「はじまして、文学少年くん」  聞き馴染みのない、けれども、いつも隣りで聞き馴染んでいるかのように錯覚してしまいそうな、深層心理にすっぽり入り込んでくる、そんな声。  俺は声の主を振り仰いだ。  知った顔ではなかった。その割に、距離はひどく近かった。  俺はフェンス越しにグラウンドを眺めており、そのフェンスのすぐ隣りに、もたれるように細く白い手が寄せられた。  初め、マユミがすぐ隣りにやって来たのかと俺は勘違いしそうだった。そのくらいに風貌が――纏う雰囲気が似ていた。  プラチナブロンドの髪がなびく代わりに、彼女のは流麗な夜の色だった。  柔らかな笑みを薄く浮かべたままで、くっきりした瞳も弓なりにしなり、人当りの良さそうな表情ながら、心の奥底の知れない、恐ろしささえ秘めていた。 「メッセージ、見てくれた?」  その問いかけで、彼女は自分が誰なのかを教えようとしていた。  あの短すぎるメッセージも、これをするための伏線だったのだろう。 「こうして急に話しかけたんじゃ、びっくりさせるだけだったもんね?」  俺は何も答えず、ただじっと相手を見返した。俺が彼女の正体を要求しているのは、言葉にせずとも明らかなのだ。 「君、一高の人だよね?」と、いつかのぞみがたずねたのと同じことを、彼女は口にする。  けれども、のぞみのときと違って、穏やかなのは口調ばかりだ。 「こうして毎日熱心に練習を見守って、君、もしかして本当はコーチか何か?」  そうでないことなど、わかりきっている言い方だった。 「君が、さくらさん?」  俺はようやく、そうたずねる。 「そっか、私の名前がわかるってことは、君も、ただ黙って震えてただけじゃ、なさそうだね?」  さくらは、変わらず余裕のほほ笑みを浮かべたままだった。 「来て。少し、お話しましょう」  俺の返事を待たず、彼女はもう、身を翻していた。  従わねば、問答無用で一方的にこの場を立ち去る姿勢だった。  俺は本当に、こうした事態で抗いようもなく、無力だ。  けれども、ならば、罠とわかって飛び込む気概くらい、示しても良さそうなものだ。  俺は、スマホを取り出すと、グラウンドの向こう、遠く周回コースを走っているのぞみの姿を眺めた。  今日は、ちょっと用事ができたから、このまま帰る。  彼女に宛てて、そう、メッセージを送った。    ※  ※  ※  ※ 「あなたが誰かなんて、どうでも良いのよ」  前を歩くさくらは、俺が付いてきているかを確認しようともせず、そう言った。 「ただ、あなたが誰と繋がっているか、あなたのバックに誰がいるか、それを知りたいだけ」 「どうして?」 「どうしてだと思う?」  聞き返したのは、答える気がない、という意思表示か。 「でも、君のしていることが“掟破り”だってことは、教えておいてあげる」  一高と三高との間には、暗黙の了解があるからと、さくらは語る。 「知っての通り、この地域で一高と三高は、長らく治安の最悪な二校だった。去年まではね」 「一高の側は、マナブさんのおかげで」 「三高の側は、私のお兄ちゃんのおかげで」  そう語ると、はじめて彼女は、俺を顧みた。 「お兄ちゃん……。君の?」 「そういうこと」  まるで、言葉にしたこと以上を読み取れるだろうと、問いかけているようで。 「そうか……。君は、マユミの……」  何、とまでは答えられなかった。友だちなのか、あるいは……。 「さすがね、文学少年くん」  簡単な話。マユミとさくらとは、両陣営を率いた英雄の、共に妹同士だったわけだ。 「マユとは、中学からの付き合いでね」  因縁の相手の割に、どこか懐かしさにすら浸る調子で、彼女はそっとつぶやいた。  だとすれば、衝突の狭間で生まれた、ふたりの間の友情があったということか。 「それからずっと音沙汰無しだったのに、ここに来て突然、あの子を見かけたなんて情報が入ってきて。一緒にいたのは、うちの一年の女の子と、そして君」  お忍びで会いに来ていたはずが、どうやら色々と、各方面へ筒抜けだったようである。 「何事かと思っていたけれど、何も起きず、ただ君がこうして時々、あの子に会いに来てるだけ。君、あの子と付き合ってるの?」  まっすぐにそう聞かれると、俺はさすがにたじろいでしまう。  むろんのこと、のぞみとの付き合いに、踏み入ったものはない。向こうもきっと同じ……に考えているはずなのだ。 「大方、マユがいつもの気まぐれで仲人でもやってるんだろうって、たいていの層は腑に落ちてるみたいだけど、私はそんな単純に納得できないの。なんていうのかな。勘が働いてね。君もマユも、そしてあの子も、私たちの知らない利害でつながってる。そうじゃない?」  つまり、この少女は、和平を結んだはずのふたつの因縁の勢力の間で、今になって揺り動く何かの予感に駆られているということか?  けれども、しかし――。 「待ってくれよ。俺みたいなのが、そんなすごい連中と、つながってるように見えるか?」  自分でそう名乗り上げるのも情けないことだが、俺は単なるモブなのだ。 「そう見えないから、尚更よ。一高の子が、お兄ちゃんとは関係ないところで、うちの子と……」  そう語ったとき、彼女の言葉には、不思議な翳りが生まれていた。  先ほどまでの余裕とは打って変わって、感情の震えるような、どこか、とても物悲しそうな――。 「また、近い内にお話しましょう」  見せてしまった内心を閉ざすように、軽やかな笑みを戻し、軽やかに俺のほうへ向き直り、彼女はそう言った。 「でも、君は何か、大事なことを隠してるって思うの。私にとって、大事な何か。それが何かなんて、今はぴんと来ないと思うけどね。忘れないで。私はこのもやっとしたものが晴れるまで、君を自由にする気はないんだから」
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