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第七話 過去からの足音
結局具体的なことは何ひとつ語られないまま、さくらという少女は舞い降りたかと思えば、またどこかへ舞い上がっていってしまった。
さて、次は何が起きるものか、そして俺はどう対処すべきか。
案じると、おいそれとマナブさんに相談するのもためらわれた。もはや、彼が俺の味方であるという保証もない。とはいえ、何か大きな、両の手に負えそうもない重たさが己を呑んだらしいことは、愚鈍な俺にも理解できていた。
ここへ来て、俺の念頭に浮上してくるのは、美優の存在だった。
「夏休み、楽しんでる?」と、俺はおもむろに、彼女にメッセージを入れた。
そんな積極性を出すに至った原因は、はっきりと定かではない。
けれども、俺を取り巻く昨今の人間模様は、どうも奇天烈な行動力に満ち溢れているのだ。俺はその波に乗って流されるままだった。いい加減、同じ地平に届くことこそなかろうと、感化のひとつくらいされても良さそうなものなのだ。
「ぼちぼちだよ」と、返事が来たのは意外と早く。
「何か、変わったことあった?」と送ったとき、俺は、彼女の身の周りにも風変わりが及んでいないかと、期待していた己自身に、気付かされてしまった。
「君が急に連絡してきたことくらいかな?」とは、だいぶ気の利いた返事で。そうだ、彼女はなぜかこういうとき、よくわからないノリの良さがある。
「俺以外にはおかしな連絡を寄越した奴はいなさそうだな」
「おかしな連絡に限らず、誰とも連絡なんて取っていないのでご安心を」
しばらくそんなやり取りをとりとめなくラリーさせた。
恐らくこれは、小説のセリフよろしく送り合っていた。ゆえに書かれていることは本当か嘘かわからなかった。けれども、差し迫った悲哀があるときに、美優はここまでおちゃらけるような人間ではなかったはずだ。
死にたいから、などと少しでも口にした彼女を、俺は思い出す。その俺は、かつて彼女と親しかったらしき少女と、繁く接触を持っている。もし、彼女がそのことを知ったら、なんと思うだろう。彼女のことを、覚えているだろうか。今も一定の思い入れを、心の臓に宿していたりするのだろうか。
思い巡らしはしつつ、けれども、明かす段階でないのだと、俺は他愛もない会話をやり取りさせるばかりで、そのときの連絡は幕を引いた。
のぞみの練習風景は、習慣としてちらりと覗く日が続いていた。わざわざ自転車でそこまで通って、俺も一体自分が何を考えているのやら、といった感じである。のぞみもまた、嫌がるでもなく気味悪がるでもなく。こういうのは、おかしな噂なりが立つところでもあろうが、俺には隠密の才能でも備わっているのかもしれない。
ゆえに、油断も大いにあったのかもしれなかった。
俺はその日も、偵察隊よろしく束の間顔だけ覗かせて、あとはその近所の図書館にこもろうと、自転車を転がした。
「おう、ボン」と、変にドスを利かせた声を背に聞いたのは、そのときだ。
しまった――とは、直感として思った。
俺に声が掛けられたのは、明白だった。それでも俺は、臆したのを見せまいと努めながら振り返った。
背の低い少年を先頭に、数人の男子生徒が。制服は、三高のものだ。
「ブンガクっての、お前んことだろ?」と、その先頭の少年が言う。
背が低く見えたが、それは傍らの少年たちが嫌に長身であるせいだった。
とはいえ、上級生には見えない。年齢も身の丈も、きっと俺と同じくらいだ。
違いは、その彼からは、背伸びしたオーラを感じさせることだ。等身大であろうとしない、そんな精一杯さも、彼を小さく見せているのかもしれなかった。
「お前、マユのなんだ?」
威圧的に俺のほうへ一歩踏み出す。目元くらいの長さに切り揃えた髪を、白銀に近いブロンドにブリーチしていた。どこかで見た覚えのある色だった。
「あいつの男ってわけじゃなさそうだな? じゃ、あの陸上部の一年と付き合ってんのか? ここが三高だって、知らねえわけじゃねえだろ? 自分の庭みたいにふらつきやがって、なんのつもりだよ?」
やはり、治安が改善したとはいえ、突っ張る人間は変わらずに突っ張るのだ。
問題は、この少年がマユミの名前を持ち出しているということである。
あのさくらという少女との繋がりも、想像させた。
「不良に絡まれました、なんて顔してんじゃねえぞ。お前、ただの一般生徒ってわけじゃねえだろ。マユと関わってるってからには、そっちと俺らとの事情くらい、承知してんだろ? なあ?」
確かに、なんならマナブさんともすでに接点がある。
「こちとらちょいと水面下で騒ぎになってんだ。掻き乱したもんは整理つけてもらわねえと収まりがつかねえだろ。ボン、お前、近頃マユの野郎は来てねんだな? あいつは今どうしてる? お前じゃどうせ話になんねえんだろ?」
「急に現れてピーチクパーチク賑やかだよねえ、アンタもさ~?」
そのとき、苛立った声がそう言ったのは少年の背後からで。
俺からは正面なのだが、俺はその声の主の接近をそれまで勘付けなかった。
「相も変わらず脇役も脇役って囀り方じゃないのさね、サブ?」
乱れぬペースで歩み寄ってきたのは、梁田マユミその人である。
少年が小さく舌打ちをした。これは、出し抜かれたのをとっさにごまかす、不意打ちに怯んだ証としての弱さであった。
「マユ、テメェようやく出てきやがったな。聞き耳立てて様子見なんざショボいことするじゃねえか、ああ?」
「虚勢張ってんじゃないっての。ブルってんの丸見えじゃないのさね」
「お前、状況わかってんのか。ここはこっちのテリトリーだぜ? 我がもの顔しときゃ、なんとかなるとでも思ってんのか?」
「テリトリーって、あんたの? コソコソしてんのはどっちだよって話じゃなくて? 文句があるってんなら、直接アタシに言ってくるか、アニキの奴に文句付けるかで良かったんじゃなくて?」
淡々と突きつけられ、少年の表情はさらにゆがむ。
「ボスが、泳がせとけって言うんだよ」
「そんなこったろうと思ったけどねん。つまり、アンタの独断専行ってことになるけど、平気? アタシから正式に掛け合っても、そんな態度してられる?」
「……わかったよ。今日のとこは勘弁しといてやる」
少年は、そんな負け惜しみを残すと、連れの少年たちと共に立ち去っていった。マユミはその間、眉ひとつ動かさず見送っていた。
俺は情けなくも置いていかれたままである。
けれども、黙ったまま立ちすくんでいる背中を眺めていると、不思議な憐憫の感情が湧いてきて、
「今までどこ行ってたんだよ?」
「ちょっと野暮用よん」とはぐらかすように答えたのは、いつも通りの彼女ながら、その口調はやや弱かった。
「アタシがいなくって寂しかった?」と、わずかな怯みも一瞬で、すぐにまた掴みどころなくこちらを翻弄する顔のマユミである。
「のぞみが寂しがってたかもな」と俺も、普段のノリで返しつつ、
「お前、何に巻き込まれてんだ?」
この日はそこで終わることなく、彼女がはぐらかそうとする一線に踏み込んだ。
「君にはなんの害もないようにするよ」
そう答えた彼女は、けれども、俺を拒絶していた。
「そんな顔しなさんなって~の。アタシの古い付き合いなんだからさ。君が気に病む道理なんてないのさね?」
慰めるように言われたのが、かえって俺には寂しいように思われた。
けれども、
「少し、そっとしておいてほしいかな」
柄にもない感傷的な一言には、ぬぐえない悲哀が漂っていた。
それで俺は、なんとも踏み込めなくなってしまった。
またしても彼女の言いなりになるしかない己ばかりが、後に残された。
※ ※ ※ ※
その夜、俺は帰宅すると、マナブさんに電話を入れた。
「緊急の用事ではないので、安心してください」
そう断りを入れるものの、
「マユがちょいと世話になったな」と、マナブさんは、俺からの電話をあらかじめ心得ていたかのようで。
「君に今日絡んできた少年がいたろ。あいつはサブって言ってな」とマナブさんは切り出す。訳知りなのは、きっとマナブさんのほうでも、マユミとひと悶着あったのだろう。
「三高と一高の過去は、君も知ってるだろ? 実は、俺と向こうのてっぺんが和解したとき、下の連中を納得させるために、俺たちはひとつのルールを設けたんだ。もし、仮に不満のある奴がいたら、まずはお互いのトップに勝負を挑めってな。最初は納得しねえ奴も多かったが、幸い後継はだいぶ育ってたから、俺らが卒業したあとも、秩序は保たれた。……で、例のサブだがな」
マナブさんは、あからさまなため息をついて、
「接触してわかったろうが、なに、突っ張ってるだけの、気の小さい野郎だ。あいつ自体には、なんの脅威もない。所詮は一年坊主だし、正直、腕っぷしもそれほど強くはない。だが、問題はあいつの交友関係にあってだな」
「例の、さくらさんですね?」
俺にも想像は付いていた。以前マナブさんが名前を出した、その少女が関与しているであろうことは。
「そうだ。さくらとサブは、まだ言葉もままならない頃からの馴染みでな」
明かしたとき、マナブさんの声は暗かった。恐らく、ここが核心なのだ。
「あんな野郎だがな、さくらにとっちゃ掛け替えのない存在ってなわけだ。むろん、それだけだったら、よくあるフィクションの題材だ。泣かせる話だ、ふたりは不器用ながらも惹かれ合い、やがては幸せに……。そうなりゃ、精々俺も、口の中がしょっぱいだなんて言いながら、奴らを冷やかしてりゃあ良かったんだ」
「でも、そうはならなかった」
「君、今日はだいぶ勘が冴えてるね? どうやら、色々と推理はできてるようだが?」
「フィクションだって、順調なふたりの関係には障害があるでしょ? つまり、そのふたりにとっては、マユミがその障害だった。違いますか?」
マナブさんはすぐに答えなかった。これは、肯定の沈黙だ。
「それだって、普通だったら青春の甘酸っぱい一ページだ。ぶつかって、丸く収まって、読者が一番に望むふたりがくっ付いてめでたし、めでたし。読者は特にトラウマになるでもなく、スッキリ爽やか、次の朝には余韻もクソもない。恋愛モノなんて、その程度だ。フィクションなら、な」
しかし、実際には苦々しく、嫌味ったらしく余韻は尾を引くこともある。人はそれを駄作と呼んだりもするが、事実はフィクションより奇なり、などとは所詮詩人の戯言に過ぎない。現実はフィクションよりロマンにもドラマ性にも欠ける癖して、理不尽さだけは一丁前に悪目立ちするものである。
「さくらんとこはな、父親が服役中なんだ。シノギの最中に、轢き逃げをしちまった角でな」
マナブさんの言葉にはカタギではない用語が含まれていた。つまり、さくらの父親は、そうした生業で身を立てていたということ。
「轢かれたのは小学生の女の子でな。危ない状況だったらしいが、なんとか一命は取りとめた。無事で済まなかったのは、むしろ轢いちまった親父さんのほうでな」
恐らく、マナブさんはその父親とも既知の仲なのだ。そして、被害者は被害者ゆえに“その一件以降”に被る不幸の余地はさほどでないが、加害者は加害者ゆえにどれだけの時間が経過しようと、未来永劫の不幸を約束されてしまう。
そんなわけで、残されたさくらと母とは、悲惨な境遇を耐え抜かねばならなかったようだ。
「そのせいでさくらは屈折しちまってな。あいつは、そのとき轢かれた女の子のことを、今でも恨んでいるんだそうだ」
「恨む?」
俺は眉を顰める。
「普通は、そういう反応をするよな」とマナブさんは一層声を昏くして、
「だが、あいつの中ではそういう整理になってはいない。なんでも事故の当時、現場は見通しの悪い交差点で、さくらの親父さんはちゃんと減速もしていた、むろん信号は青だった。そんだけ安全運転をしてても避けられないくらい、その女の子は突然、まるで狙い澄ましたように、交差点に飛び出した。……そう、まるで、初めからそうやって、命を絶とうとしたみたいにな」
最後の一言に、俺は雷に打たれたような心境に陥る。ひどく動揺が走っていた。けれども、その理由まで俺はわからなかった。あまりの混乱のせいで、己の感情に、整理が付かなかった。
「だからさくらは、こう思ったんだ。もし、その女の子が飛び出しさえしなかったら。もし、あと少しだけでも、飛び出すタイミングがずれていたら。そうだとしたら、こんなことにはならなかった。なぜ、彼女はそんなことをしたのか。さくらはな、今でもそれを探ってるんだ」
「その被害者の女の子を、探してるってことですか?」
「そうだ。見つけ出して、問いただすつもりなんだと。そして、そいつの過ちに、落とし前を付けさせてやるんだとよ」
すなわち、それは、己が不幸に貶められたことへの、復讐。
「その子を、止めてやろうとする人は、いないんですか?」
俺はそうたずねて、しかし、すぐにそれが、愚問であることに気付いた。
「……そうか。それが、マユミだったんだ」
「表向きは、サブがさくらの心の闇を、なんとか食い止めてることになってる。だが、一番に責任を感じているのは、マユだ」
「でも、それはどうして?」
「これは俺も詳細は知らねえんだが、どうもマユは事故の件で、さくらの、そして俺らも知らない真相を握ってるらしいんだ。少なくとも、さくらの奴はそう信じている。マユの奴、最初はさくらたちと一緒に三高に通うつもりだったらしいんだが、急に一高に志望先を変えやがって、その理由ってのが、どうもあいつらから逃げたんじゃないかってな。これは、俺も何度詰めたかわからねえが、あいつは何も語らねえ。だが、あいつら三人の間で、何か秘密があるのは確かだ。そして、文学少年くん、君を三高に連れていったのは、ただ君をからかおうと、美優ちゃんのことで首を突っ込もうとしただけじゃあない」
「俺を、巻き込もうとした……?」
「さあな。だが、君にはひとつ、言っておきたいことがある。あいつは、さくらとサブとの距離が出来た頃から、妙に人様のトラブルに首を突っ込む癖がある。これは、なにもお節介焼きになったわけじゃあない。そんな生ぬるいもんじゃない。そいつは、あいつなりの“自傷行為”なんだ。あいつは、どう足掻いても上手くは解決しないこと、泥沼に嵌まり続けるしかないようなことの気配に、敏感になっちまったのさ。で、その泥沼に、自分も一緒に沈み込もうとするのさ。痛みに身を浸していたほうが、ずっと気も紛れるからな。だからな、文学少年くん。どうか、あいつを信用しないでほしい。救ってほしいなんて、俺は思わない。俺も尽くせる手は尽くした。その果てにな、あいつはあいつの生きたいように生きるしかないんだと気が付いた。だが、せめてな、あいつの道連れになる奴を少しでも減らしたい。つまりはこれが、君たちの関係に俺が首を突っ込む理由だ。すでに君はさくらの一件に巻き込まれている。他ならない、マユミの手によってな。この先も、まだまだ巻き込まれるだろう。だが、身を委ねちゃならない。君がそのときどうすべきか、それを決められるのは、君だけだ。どうか、胸に刻んでおいてほしい」
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