公開プロポーズ

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 私は子供のように両手で顔を覆っていた。自分が舞台に立っていることなどにまったく頓着せず、ただ肩を震わせて泣きじゃくっていた。ジュンくんは椅子に座りチェロを構える。そして弾き出したのだ。──エルガーの「愛の挨拶」だった。  ──また、この曲……。  学校の屋上で川田君に告白される時も、この曲だった。  CMやドラマで使い古され、すっかり耳に馴染んでいるはずの曲が、この世で一番美しい曲に聞こえた。そして、私の悲しみにこんなにぴったり寄り添ってくれる曲があるだなんて、とても信じられなかった。そしてその曲をジュンくんが弾いているのだ。きっと彼は5か月の間私に伝えたかった思いを込めて弾いているのだろう。その思いはどうしても埋めることができなかった心の空白に注がれ、今や溢れだそうとしていた。それでも私は貪欲に彼の音を吸収した。  ──悪魔の子なんかじゃないよ、私は。だって、ほら、ジュンくんが心を込めてチェロを弾いてくれているじゃない。  私の悲しみの涙は喜びの涙に変わっていた。ジュンくんが、憧れのジュンくんが私のために音楽を奏でてくれる。嬉しい。幸せ。  5カ月という期間は空白ではなかったと知った。土にまかれた種がいきなり芽を出すのではない。根が土壌に深まった分、張った分、上に伸びることができるのだ。ジュンくんの愛がこんなに深まっているのに、私を求めてこんなに伸びているのに、私は何も知らないでいた。  正直言うと、入学以来、私はジュンくんのことばかり考えていたのだった。私のことが好きなのだろうか。関心がないのだろうか。きらいなのだろうか。──考えても考えても選択肢を絞り切れず、結局、次の日も、そのまた次の日も同じことを考えているのだった。彼の「結婚しよう」を何度も疑った。本気なの? 気まぐれ? それとも頭にザルを被せたように、ただのからかいだったの? そこにもやはりいくつもの選択肢が生じた。それが多すぎて、絞り切れず、いつもそのことを考えることになった。要するに私の心はいつもジュンくんでいっぱいだったのだ。私の愛の根も土壌の奥深く伸びていたのだった。  それを躰のサイドから後押ししたのが牧村博士の│(はり)治療だった。腰は早いうちに治った。博士の鍼は女性ホルモンの分泌を促し女体を一層女性らしく成長させた。乳房にボリュームが増し、張りができた。生理が規則正しく来るようになった。触覚が鋭敏になった。そして……、性器への刺激が気持ちいいと感じられるようになった。快感は子宮を震わせた。──要するに、16歳の女体が成熟し、今や桜坂の桜のように満開になろうとしているのだった。そう、5か月の空白は空白ではなかったのだ。
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