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わたしを離さないで(最終話)
昼さがりの空は、青く高く。高く、……ホントに、高くて。
こんなにも広い世界に、わたしは生きてたんだ。これからも、生きてけるんだ。
見下ろす町も、その向こうの山も。どこまでも遠い。
その遠くの向こうまで、この足であるいて行ける。その気になれば、どこまでも。
もう、知クンの手に、つかまらなくても……。
見晴らしのいい丘の上の霊園は、赤や黄色にそまった木々に囲まれてる。
なんて、たくさんの色彩! こんなにも心地いい色ばかりが、なにげない飾りけのない自然に、あふれてるなんて。
世界は、こんなにも人間にやさしかったんだ。こんなにも、美しかったんだ。
1人であるく道は、なにもかもが、真新しくて、新鮮で。
ブーツの底で踏みしめる枯れ葉の音だけ、ヤケに懐かしい。
ほのかにフワッと、キンモクセイの匂いが鼻の先をなでていった。
たくさんの墓石が並んでいなければ、ふつうの公園とでも間違えそうだ。
小さな川や、噴水もある。
手桶をブラ下げたまま、のんびり遊歩道を散策しているような家族づれも見えた。
ひときわ目立つ、あなたの大きな後ろ姿。
わたしは、敷石を一歩づつユックリ、後ろから近付いて。
真っ白いワイシャツの背中を軽く「トン」と叩く。
それだけで、ほんのり手のひらが温かく感じるのは、気のせいなのかな?
「恭子……」
あなたは、黒目がちの瞳をしばたたかせると、首を大きくかしげながら、わたしの顔をのぞきこんだ。
きっと、わたしの赤くはれたマブタに気付いて。なにか言いたげに口をパクパクしかけたけど、あきらめた。
わたしが、マバタキもしないで強くあなたを見返してみせたから、気圧されたんでしょ?
"土井家之墓"と刻まれた、タテ長の黒いお墓に向かって、あなたと並んで。一緒に手を合わせる。
あなたは、深く響くおだやかな声を、しんみりと少し、くもらせて。
「ちょうど来年の今ごろに、式の日取りが正式に決まったよ。その報告にきたんだ、今日は」
「ずっと、ずっと、ちっちゃな頃から、わたしたちのこと応援してくださって。本当にありがとうございました」
鼻の奥が、ツンと熱くなる。
お線香のケムリが、メガネごしにも、目にしみて。
「おばさんが、移植に頼らない新しい角膜医療法の治験者になることを、わたしに熱心にすすめてくれたから。だから、わたし、ナケナシの勇気をふりしぼって、手術を受けることができたんです。だから……」
――おばさんが、わたしの目に、光をくれたんです。臆病だった、わたしに。
「本当に、本当に……ありがとう」
「天国から見にこいよ、母さん。俺たちの結婚式。恭子の花嫁姿、楽しみにしてたもんな、すごく」
「ホントは直接、見てほしかった。わたしのウェディングドレス姿……」
「恭子……」
おばさんが喜んでくれる顔、この目で見たかったよ。
でも、間に合わなかった。
病魔にとりつかれていたおばさんの心臓は、わたしの目が光を取り戻したのを知ったとたん、安心して力尽きたみたいに……。
最期の瞬間、病床に立ち会えたことが、せめてもの救いだった。
おばさんは、おじさんに手を握りしめられながら、眠るように、しずかに旅立った。
わたしと知クンが幸せになるようにって、何度も何度もくりかえし、祈ってくれたよね。
だから、
「シアワセになってよね、知クン!」
顔をあげたわたしは、両手を思いっきり空に向けて伸ばして、そう言った。これは、自分自身への宣言。
知クンは、大きなカラダをオロオロとすくめて、
「なにそのヒトゴトみたいな言い方? やっぱり、恭子、俺と別れたいんだ……」
「なんでそうなるの?」
「おかしいと思ってたんだ。急に1人暮らしがしたいなんて言い出すし。結婚式の式場と日取りが決まったばかりなのにさ、俺たち」
「結婚するまでの間、1年だけだよ? 1人暮らし、したいの。どうしても」
青い空を切り裂くみたいに、真っすぐな白い線がグングン伸びてく。あれって、ヒコーキ雲?
わたしの左手のリングを、アイマイな遠い雲の輪郭が偶然なぞった。まるで、気まぐれな寓意じみて。
「……なんでも1人で、やってみたいの。いろんなこと、なんでも。1人で、できるようになりたいの。あなたから、少し離れて」
「でも、恭子……」
「歩道橋も長いフミキリも、横断歩道も。ひとりで歩いてみたいの。それが、今のわたしの一番の望みなの。だから、叶えさせて。ね? お願い。……わたし、あなたを、めいっぱいシアワセにしてあげたいんだから」
「…………?」
「だって。わたしが世界一シアワセになることが、あなたにとって、なにより一番のシアワセなんでしょ?」
「あ……っ」
あなたは、たちまち絶句して。
人なつっこい小麦色の顔が残らず、耳の先から首まで、一瞬で真っ赤に染まる。湯気が吹き出そうなくらい。
「もしかして、リビングの、棚の上の手紙……?」
「うん。……読んじゃった」
「そ、そっか……」
あなたは、せっかく整えていた黒髪をクシャクシャッと両手でカキまわして、
「隠し場所、変えとくんだったぁ……」
って、消え入りそうな声でボソッとボヤいた。
そんなあなたが、わたしは好きなんだ。大好き。大好き。今すぐ叫びたいくらい。
だれよりもシアワセにしたいよ、ものすごく。知クンをシアワセにしたい。シアワセでいてほしい。
今まで、ずっと、いっぱい守ってもらった分。闇の中でも、ずっとシアワセでいさせてもらった分。わたしも守りたいよ、知クンのシアワセ。
胸がキュウッてシメつけられるくらい、どうしようもなく、そう思うの。
「わたしをシアワセにしたかったら、ワガママ聞いて」
「ど、どんな?」
クッキリしたノドボトケが、ゴクリと動く。
わたし、ちゃんとマジメな顔をとりつくろえてる?
「掃除も料理も、お洗濯も。知クンに頼らなくても、わたし1人で全部できるようになりたいの。知クンのいるスーパーに、お買い物に行ったりもしてね」
「それ、絶対、パートのおばさんたちにヒヤカサレるぞ、俺たち」
「知ってる。みんなのアイドルだもんね、知クンは」
「うっ、……カンベンしてよぉ」
「いいのいいの。そしたら、いつものコーヒーショップに1人で出かけて、マスターにグチをこぼすから、わたし。知クンが職場でモテ過ぎちゃって、浮気でもしないか心配なの、って」
「バカっ! 浮気なんてするわけないだろ?」
「分かってるけど。……でも、そういうヤキモチだって、やいてみたい。2人の共通の知り合いに、恋の相談も。してみたいんだ、わたし」
「…………」
「知クンに頼りっきりのお姫さまじゃなくて。同い年の幼なじみとして、はじめから。フツーの恋をしてみたくて、それで……」
とりとめのない願いを、とりとめのないまま続けるわたしに、あなたは真顔のまま。アイヅチも打ってくれない。
すっごく、呆れてる……?
「それで……今日みたいに、家の外での待ち合わせとか。予定のないデートとか。それで、……それから……」
ひとりでに、語尾がしおれてく。
わたし、幼稚すぎる? あなたをすごく幻滅させてる?
でも、あなたは、くしゃくしゃっと顔をくずして、
「じゃあ、さっそく、いきあたりばったりのドライブとか。してみちゃう?」
かげりのない明るい声で。
わたしの瞳が完全に光を映さなくなったのは、9才のときだった。それから20年近くの間、終わりの見えなかった闇の中で、わたしを照らして温めてくれた一番の光は、あなただった。
絶望して泣きわめいて、手あたりしだいにモノをぶつけてヤツアタリしたわたしを、それでも、なぐさめてくれた。おっとりした優しい声で。あの頃は、まだ、声変わりもしてない、子供の声だったね。
それから、ずっと。あなたは、わたしに光をそそぎ続けてくれた。
これからは、わたしも、あなたと一緒に輝く、光になる。
それで、いつかは、あなたのお母さんみたいに。誰かに光をともせるようになりたい。
だから、差し出された大きな手をスルーして。
わたしは、右手を腰のクビレに当てた。ちょっと気取って、ポージング。
あなたは、一瞬キョトンとなる。それから、わたしの右腕に、自分の左腕をぎこちなくからませて、聞いてきた。
「で? どこに行く、これから?」
「えっとね、……海が見たいな。初めての海を見たい、知クンと」
「よし。じゃあ、カーナビの入力は、恭子に任せた」
「オッケー。任された!」
赤や黄色の落ち葉が舞い落ちる踏み石の上を、お互いの腕をからみあわせて、歩いてく。わたしたち。
このシチュエーションって、まるで……。
「ねえ、知クン?」
足どりは、いつの間にか2人そろって。まるで、二人三脚。
「わたしと同じこと、考えてるでしょ?」
そう聞いたら、知クンは、まっすぐ前を向いたまま、まぶしそうに目を細めて、
「パンパカパーン、パンパーカパーン……」
って、ウェディングマーチのメロディーを、おどけた口調で口ずさんだ。
――やめるときも、すこやかなるときも。曲がりくねった道も、真っすぐな道も。どこまでも、どこまでも。
ずっと、離れないで……。
×--- オワリ ---×
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