3_伊織_俺は先輩の後輩だ

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3_伊織_俺は先輩の後輩だ

 5月下旬。  新緑の爽やかな季節から梅雨入りへと移ろう季節。  伊織惣一はチェリー・スケーティング・クラブのファサードの下で、ベンツを降りた。  老朽化した建物を見て、思わず溜息が漏れる。リンクは外観が色褪せ、赤字経営の苦しさが滲み出て、貧乏神に取り憑かれているようだ。  ほんの10年前までは名門クラブだったが、現在活躍している選手はいない。  フィギュアスケートは人気だが、実際に始めるとなるとリンクや教室の数は限られ、続けるには経済力と親の支援が必要となる。  そして経営者側はリンクを維持するのが大変だ。  チェリーSCは、スケートリンクを所有するチェリー・マネジメントの業績が芳しくない。今年とうとう、赤字のスポーツ部門は完全撤退、リンク売却を考えていた。だから伊織が買収したのだった。  世界の多角的大企業IORIグループの創業者一族の御曹司が、惣一である。  自身でも会社を立ち上げているが、将来はIORIを背負って立つ身。  子会社IORIアリーナの取締役兼スポーツ事業部長として、オリンピックを目指す選手を後援している。フィギュアスケート競技界におけるスポンサー最大手。  伊織はチェリーSC買収担当者であり、先日チェリーの新取締役代表になっていた。  エントランスへ入っていくと、クラブ幹部たちが出迎えのために現れた。その中に、振付師兼コーチ美馬遊人の姿はなかった。彼は大学生であり、チェリーの契約社員だった。  その代わり、スレンダーボディの美女がひとり、伊織を睨みつけていた。  教室事業部長にして美馬の元婚約者、桜庭玲花、27歳。クラブ親会社チェリー・マネジメント社長・桜庭笑子(さくらばえみこ)の一人娘だった。  ヒールを鳴らして伊織に歩み寄るなり、 「あなたが我が社を乗っ取った張本人?」  とは、開口一番の言い草だった。 「潰れる前に買収されてよかったと、感謝すべきだろう」 「ご挨拶ね」  二人は冷たい火花を散らした。 「美馬遊人はリンクか?」 「そうよ。でも、直接交渉はできないわ」 「なに?」 「仕事の依頼でしょう? 窓口は私」  IORIは3ヵ月前から美馬遊人に、IORI所属フィギュアスケート選手のための振付を依頼をしていた。  あっさり断られたとの報告を受けて悶々とし、結婚式のことを聞きつけて行って見れば中止の大騒動、もうこれは天命だとすら感じて、8年ぶりに、向き合うことにしたのだった。買収も結局、彼との再会にこぎつけるついでのようなものだった。 「美馬遊人には直接交渉する。俺が来たと言えば、会ってくれるはずだ、きみが邪魔さえしなければ」 「あら」  玲花の目が煙るように細まった。 「あなた、遊人の何なの?」  遊人だと?   伊織は額にピリリと青筋が立つのを感じた。  彼女は元婚約者だ。呼び捨てにして当然の間柄だが、胸の奥がもやもやする。憧れの先輩を、たかだか女が呼び捨てすること自体、おこがましい。 「俺は、先輩の後輩だ」 「なにそれ。日本語的にどうなの?」  玲花が馬鹿にしたように言う。  伊織は無視した。 「朝桐(あさぎり)、行くぞ」 「はい」  朝桐貴士は知性ある有能な秘書だ。常に笑っているような穏やかな顔で、老若男女を問わず受けがいい。無愛想で硬い目をした伊織の傍らに控えていて、伊織が機嫌を損ねた相手には代わって頭を下げて、微笑みで悩殺する。  玲花にも同じようにしたが、態度の悪い女はふいっと顔を背けた。  伊織は相手にするなと秘書に告げ、玲花を避けてエントランスに入って行く。  玲花と美馬の関係はある程度知っていた。  念のために朝桐に確認もさせた。
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